慈悲
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)極《き》めて

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)うかつもの[#「うかつもの」に傍点]
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 ひとくちに慈悲ぶかい人といえば、誰にでもものを遣る人、誰のいうことをも直ぐ聞き入れてやる人、何事も他人の為に辞せない人、こう極《き》めて仕舞うのが普通でしょう。それはそうに違いないでしょう、それが慈悲ぶかい人の他人に対する原則ですから。
 然し、原則というのは結局原則であります。ものごとが凡て、原則どおり単純に行って済むのなら世の中は案外やさしいものです。お医者でも原則通りですべて病人が都合よく処理出来るなら、どのお医者でもみな病理学研究室に閉じこもって居れば世話はありません。なにも、面倒な臨床学など習って実地研究の何年間など費《ついや》す必要は無いわけです。処が、その必要がある。ありますとも、其処《そこ》が臨機応変、仏教のいわゆる、「時《じ》、処《しょ》、位《い》」に適する方法に於いて原則を実地に応用しなければなりません。
 本当の慈悲とは、此処《ここ》に本当にものを与えるに適当な事情を持つ人がある。その時、その人に適当な程のものを与へる。それが本当の慈悲であります。ここに一人の怠け者があって、それが口を上手にして縋って来たとする。その口上手《くちじょうず》に乗ぜられ、ものをやったとする。それは慈悲に似て非なるものであります。おだてに乗った、うかつもの[#「うかつもの」に傍点]の愚な所行です。そんな時、ものを遣《や》る代りに、そのなまけ者のお上手者の頬に平手の一つも見舞ってやる。誡めになり発憤剤になるかもしれません。その方が本当の慈悲です。
 人の云うことを聞けば宜いと云って人を甘やかすばかりが慈悲ではありません。お砂糖ばかりで煮たお料理は却ってまずい。ひとつまみの塩を入れてたちまち味の調和がとれるではありませんか。時には、いつくしみのなかに味ひとつまみの小言もいれなくては完全な慈悲とはならないでしょう。
 愛情ばかりで智慧の判断の伴わない慈悲は往々にしてまた利己主義の慈悲になります。折角、自分は善良な慈悲心でして居るつもりのことが、利己主義の慈悲心になっては残念です。
 トルストイの作品のうちにあった例だと思います。何の職業をして居る人だったか忘れましたが、とにかく慈悲を心がけて暮らして居る或る男がありました。或る冬の夜、非常に天候が荒れ(或いは雪の夜だったかもしれません)ました。慈悲深い男は、家外の寒さを思い遣り乍ら室内のストーヴの火に暖を採《と》り、椅子にふかふかと身を埋めて静に読書して居りました。と、家外の吹雪の中に一人のヴァイオリン弾きの老爺の乞食が立ち、やがてそれは寒さのために縮んで主人の室の硝子扉に貼りつくように体を寄せました。主人はもとより慈悲の心で生きて居る人です。しばらくヴァイオリン弾きの乞食姿をあわれと思って見て居りましたが、やがて意を決して硝子扉を開けました。主人はそして、ひたすら恐縮するヴァイオリン弾きを室内へ招じ、暖い喰べものを与え、ストーヴの火をどんどん焚き足《た》して長時間吹雪のなかにさすらってこごえて来た乞食の老爺の体をあたためて遣りました。
 翌日、その翌日となり雪は晴れ道もよくなりました。ヴァイオリン弾きの老爺はしきりに主人の邸内から辞してまたさすらいの旅に出ようとしました。しかし、主人はきき入れませんでした。何処までも、自分の邸内にとどめて可哀想な乞食音楽師を安楽に暮らさせ様と心掛けました。それにもかかわらず老爺のヴァイオリン弾きはしきりに辞去したがる。するとなおさら主人は引きとめる。ほとんど強制的にひきとめる。
 ある夜、主人はヴァイオリン弾きの老爺が、突然無断で邸内から抜け出し、何処とも知らず、逃げ失せたのを知りました。「ああ、彼は、矢張り空飛ぶ鳥であったか。」こう気がついたのは、主人であったか、読者たる私であったか忘れましたが、とにかく利己主義な慈悲の例証にこの話は役立つものです。即ち、主人は、ヴァイオリン弾きの本質を達観し得なかった。彼の放浪的な運命をつくった性格を見透《みとお》さなかった。彼の生き方は、どんな憂き艱難をしても、野に山に、街に部落にさすらって歩くのがその性質に合う生き方なのでした。そういうものには、そうさせて置くのが好いのです。彼の幸福は、決して暖衣飽食して富家に飼われ養われて居る生活のなかには感じられなかったのです。彼は主人に引き留めれられて居るうちどんなに窮屈であり、旅が、さすらいが恋しかったか知れないのです。彼は主人の好意がむしろ迷惑だったでしょう。主人の慈悲は彼に取ってむしろ無くもがなの邪魔だったでしょう。
 それ
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