た上に、拮[#「拮」に「ママ」の注記]屈な気性の私は、こゝでも、自分には縁のない字として諦めてしまつた。その代り、女学世界といふ雑誌があつて、その口絵の裏などに屡※[#二の字点、1−2−22]、多田親愛先生の書が載つてゐた。私はその書が好きで、切り抜いて置いて熱心に習つたものであつた。学校でも校長先生の跡見花蹊女史の字が漢の字であつてその影響を多分に受けた。
女学校を卒業すると、私は京橋の岡本家へ来たが、主人の父は当時、東京で名前の知られた書家であつた。舅は私に自分の流儀を直接教へはしなかつた。非常に寛容の人で私の字筋は性格的だから自分で工夫して行かせ度いと云はれ、所蔵する書の本を沢山私に貸与して優れた字の含む風韻とか格といふものを感得させて呉れられた。(舅の友人に前田黙鳳といふ先生があつて、その古朴正厳な覇気横溢の書体にも私は深く感銘を得たことを憶えてゐる。)私は斯様に字に就いて可なり我儘であると同時に悩んだ。従つて時代/\により筆法が変はり、今に至るもまだ固定した私の字といふものはない。自分のサインさへ決まつてはゐないほどである。
それだけ字に対する興味と意気込みは、日に/\新
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