の丘の桜
かそかなる遠雷《とほいかづち》を感じつつひつそりと桜さき続きたり
なごやかに空くもりつつ咲き盛《さか》る桜を一日《ひとひ》うち和《なご》めたり
気難《きむづ》かしきこの家《や》の主人《あるじ》むづかしき顔しつつさくら移植《うつ》させて居《を》り
歌麿《うたまろ》の遊女《いうぢよ》の襟《えり》の小桜《こざくら》がわが傘《からかさ》にとまり来にけり
政信《まさのぶ》の遊女の袖《そで》に散るさくらいかなる風にかつ散りにけん
うたかたの流れの岸に広重《ひろしげ》が現《うつつ》の桜花《はな》を描《か》き重ねたり
咲き倦《う》みて白くふやけし桜花《はな》のいろ欠伸《あくび》かみつつわが見やりたり
みちばたのさくらの太根《ふとね》玉葱《たまねぎ》を懇《ねもごろ》いだきわがいこひたり
ほろほろと桜ちれども玉葱はむつつりとしてもの言はずけり
何がなしかなしくなれりもの言はぬ玉葱に散り散り滑《すべ》るさくら
ここに散る桜は白し玉葱の薄茶《うすちや》の皮ゆ青芽《あをめ》のぞけり
春浅しここの丘辺《をかべ》の裸木《はだかぎ》の桜|並木《なみき》を歩《あゆ》みつつかなし
さくら木のその諸立《もろだ》ちのはだか木にこもらふ熱を感ぜざらめや
松の葉の一葉《ひとは》一葉に濃《こま》やけく照る陽《ひ》のひかり桜にも照る
若竹《わかたけ》のあさきみどりに山ざくら淡淡《あはあは》と咲きて添《そ》ひ樹《た》てるかも
桜花《さくらばな》ちりて腐《くさ》れりぬかるみに黒く腐れる椿《つばき》がほとり
地を撲《う》ちて大輪《たいりん》つばき折折《をりをり》に落つるすなはち散り積むさくら
大寺《おほでら》の庭に椿は敷《し》き腐り木蓮《もくれん》の枝に散りかかる桜
ぼたん桜ここだく樹《た》てり尼《あま》たちが紐《ひも》かけ渡し白衣《びやくえ》干《ほ》すかも
鬱《うつ》として曇天《どんてん》のしたに動かざり梢《こずゑ》のさくら散り敷けるさくら
どんよりと曇天に一樹《ひとき》立つさくら散るとしもなく散る花のあり
一天《いつてん》は墨《すみ》すり流し満山《まんざん》の桜のいろは気負《きお》ひたちたり
見渡せば河しも遠し河しもの瀬瀬《せぜ》にうつれる春花《はるはな》のかげ
急阪《きふはん》のいただき昏《くら》し濛濛《もうもう》と桜のふぶき吹きとざしたり
さやさやと竹さやぐからに出《い》でて見ればしんと桜が咲き居《ゐ》たるかも
塔《たふ》の沢のいかもの店に女唐《めたう》停《た》ちその向《むか》つ峰《を》の桜花《はな》盛りなり
いかものを女唐買ひたりその女唐箱根の桜花《はな》の下みちを行く
わがままはやめなとぞおもへしかはあれ春さり来れば桜さきけり
桜花《はな》の山は淡墨《うすずみ》いろに暮れにけり大烏《おほがらす》一羽ひつそり帰る
大暴風《おほあらし》うすずみ色の生壁《なまかべ》にさくら許多《ここだ》くたたきつけたり
ここにして桜|並木《なみき》はつきにけり遠浪《とほなみ》の音かそかにはする
桜花《はな》の山はうしろに高し見はるかす淡墨いろのたそがれの海
いそがはしく吾《われ》を育ててわが母や長閑《のど》に桜も見で逝《ゆ》きませしか
十年《ととせ》まへの狂院《きやうゐん》のさくら狂人《きちがひ》のわれが見にける狂院のさくら
狂人のわれが見にける十年まへの真赤きさくら真黒きさくら
狂人《きちがひ》よ狂人《きちがひ》よとてはやされき桜花《さくら》や云《い》ひし人間《ひと》や笑ひし
ふたたびは見る春|無《な》けむ狂人《きちがひ》のわれに咲きけむ炎の桜
わが夫《つま》よ十年《ととせ》昔のきちがひのわが恐怖《おそれ》たる桜花《はな》あらぬ春
ねむれねむれ子よ汝《な》が母がきちがひのむかし怖れし桜花《はな》あらぬ春
人間の交友《まじわり》のはてはみな儚《はか》な桜見つつし行きがてぬかなし
[#地付き](来よと宣《の》らせる佐藤春夫氏に厚く謝しつつ)
桜花《はな》あかり廚《くりや》にさせば生魚《なまざかな》鉢《はち》に三ぼん冴《さ》えひかりたり
生ざかな光りて飛べりうす紅《べに》の桜の肌の澄《す》みの冷たさ
底本:「愛よ、愛」メタローグ
1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1976(昭和51)年発行
※「椽《えん》」の表記について、底本は、原文を尊重したとしています。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2004年2月17日作成
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