びに残る
ほそほそと桜花《はな》の奥より見えて来る灯《ひ》にまさりたる淋しき灯なし
桜花《はな》の奥なにたからかに語り来る人ありて姿なかなか見えず
糸杉《いとすぎ》のみどり燃えたりそのかたへふわふわ桜咲き白《しら》むかも
桜さく丘にのぼれば遠《をち》かたの松ふく風の声かそかなり
この丘の桜花《さくら》のもとゆ見はるかす遠松原《とほまつばら》のほのぼのしかも
松の間《ま》に桜さきたり松の葉の黒きひまよりうす紅《べに》ざくら
ミケロアンゼロの憂鬱《いううつ》はわれを去らずけり桜花《さくら》の陰影《かげ》は疲れてぞ見ゆれ
桜花《はな》あかりさす弥生《やよひ》こそわが部屋にそこはかとなく淀《よど》む憂鬱
かなしみがやがて黒める憂鬱となりて術《すべ》なし桜花《はな》のしたみち
早春の風ひようひようと吹きにけりかちかちに莟《つぼ》む桜|並木《なみき》を
かちかちにつぼむ桜の樹下《こした》みちしなび蜜柑《みかん》を曳《ひ》いて通るも
さくら咲くあかるき外《と》には立ちにけりわが衣《きぬ》の皺《しわ》にはかに著《しる》し
仁丹《じんたん》の広告灯が青くまた赤く照《てら》せり夜《よ》の桜ばな
桜花《さくらばな》軒場《のきば》に近し頬《ほ》にあつるかみそりの冷えのうすらさびしき
山川のどよみの音のすさまじきどよみの傍《そば》の一本《ひともと》桜
桜花《はな》さけど廚《くりや》女房いつしんに働きてあり釜《かま》ひかる廚
裏庭のひよろひよろ桜てふずば[#「てふずば」に傍点]の手ふき手ぬぐひ薄汚《うすよご》れたり
しんしんと家をめぐりて桜さくおぞけだちたり夜半《よは》にめざめて
けふ咲ける桜はわれに要《えう》あらじひとの嘘《うそ》をばひたに数《かぞ》ふる
さかんなる桜はわれになまぬるき「許しの心」あに教ふべしや
薄月夜《うすづくよ》こよひひそかに海鳥《うみどり》がこの丘《をか》の花をついばみに来《こ》む
この丘に桜散る夜《よ》なり黒玉《ぬばたま》の海に白帆《しらほ》はなに夢むらむ
夜《よ》は夜とて闇の小床《をどこ》に淡星《あはぼし》と語らふものか小《こ》ざくら桜
こよひわきて桜花《はな》の上なる暗空《やみぞら》に光するどき星ひとつあり
ひとり見る山ざくらばな胃を病《や》みてほろほろ苦き舌を含《ふふ》めり
ねむたげな桜|並木《なみき》を一声《ひとこゑ》の汽笛《きてき》の音がつつ走りけり
駅前の石炭の層にうらうらと桜花《はな》ちりかかる真昼なりけり
自動車の太輪《ふとわ》の砂塵《さぢん》もうもうとたちけむりつつ道の辺《べ》の桜
真白なる鶏《くだかけ》ひとつ今朝《けさ》みれば血に染《そ》みてあり桜花《はな》の樹《こ》のもと
空高く桜咲けどもわがたどる一本の道は岩根《いはね》こごしき
さくらばな咲く春なれや偽《いつは》りもまことも来よやともに眺《なが》めな
日《ひ》の本《もと》の春のあめつち豪華《がうくわ》なる桜花《さくら》の層をうちに築きたり
おのづから蔭影《かげ》こそやどれ咲き満《み》てる桜花《さくら》の層のこのもかのもに
にほやかにさくら描《か》かむと春陽《はるひ》のもとぬばたまの墨《すみ》をすり流したり
にほやかにさくら描《ゑが》きておみな子《ご》も金《かね》もうけむとおもひ立ちたり
おみな子の金もうくるを笑はざれ日本のさくら震後の桜
日本の震後のさくらいかならむ色にさくやと待ちに待ちたり
金ほしきおみなとなりて眺《なが》むれど桜の色は変《かわ》らざりけり
金ほしき今年の春のおのれかもいやうるはしと桜をば見つ
このわれや金とり初《そ》めの日《ひ》の本《もと》の震後の桜花《はな》の真盛りの今日《けふ》
停電の電車のうちゆつくづくと都《みやこ》の桜花《はな》をながめたるかも
桜さく頃ともなればわきてわが疲《つか》るる日こそ数は多けれ
かろき疲れさくらさく椽《えん》にかりそめの綻《ほころ》びもわがつくろはずけり
しばたたきうちしばたたき眼《め》を病《や》めるわれや桜をまともには見ず
さくら花《ばな》まぼしけれどもやはらかく春のこころに咲きとほりたり
うつらうつらわが夢むらく遠方《をちかた》の水晶山に散るさくら花
うちわたす桜の長道《ながて》はろばろとわがいのちをば放ちやりたり
外《と》の面《も》には桜|盛《さか》るをわが瓶《へい》の室咲《むろざ》きの薔薇《ばら》ははやもしぼめり
真黒くわれ動《うごか》ざりあしたより桜花《はな》は窓辺《まどべ》に散りに散れども
ひそかなる独言《ひとりごと》なれけふ聞きてあすは忘れよひともと桜
遠稲妻《とほいなづま》そらのいづこぞうちひそみこの夜桜《よざくら》のもだし愛《かな》しも
かきくもる大空のもとひそやかに息づきにつつこ
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