鯉魚
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)嵐山《あらしやま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|箸《はし》ずつ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)曲※[#「碌のつくり」、第3水準1−84−27]《きょくろく》
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     一

 京都の嵐山《あらしやま》の前を流れる大堰川《おおいがわ》には、雅《みや》びた渡月橋《とげつきょう》が架《かか》っています。その橋の東詰《ひがしづめ》に臨川寺《りんせんじ》という寺があります。夢窓国師《むそうこくし》が中興の開山で、開山堂に国師の像が安置してあります。寺の前がすぐ大堰川の流で「梵鐘《ぼんしょう》は清波を潜《くぐ》って翠巒《すいらん》に響《ひび》く」という涼《すず》しい詩偈《しげ》そのままの境域であります。
 開山より何代目か経《た》って、室町時代も末、この寺に三要という僧《そう》が住持をしていました。
 禅寺《ぜんでら》では食事のとき、施餓鬼《せがき》のため飯を一|箸《はし》ずつ鉢《はち》からわきへ取除《とりの》けておく。これを生飯《さば》と言うが、臨川寺ではこの生飯を川へ捨てる習慣になっていました。すると渡月橋上下六町の間、殺生《せっしょう》禁断になっている川中では、平常から集り棲《す》んでいた魚類が寄って来て生飯を喰《た》べます。毎日の事ですから、魚の方ですっかり[#「すっかり」に傍点]承知していて、寺の食事の鐘《かね》が鳴るともう前の淵《ふち》へ集って来て待っています。
 淵の魚へ食後の生飯を持って行って投げ与《あた》える役は、沙弥《しゃみ》の昭青年でありました。年は十八。元は公卿《くげ》の出ですが、子供の時から三要の手元に引取られて、坐禅《ざぜん》学問を勉強しながら、高貴の客があるときには接待の給仕に出ます。髪《かみ》はまだ下《おろ》さないで、金襴《きんらん》、染絹《そめぎぬ》の衣、腺病質《せんびょうしつ》のたち[#「たち」に傍点]と見え、透《す》き通るばかり青白い肌《はだ》に、切り込《こ》み過ぎたかのようなはっきり[#「はっきり」に傍点]した眼鼻立《めはなだ》ち、男性的な鋭《するど》い美しさを持つ青年でした。寺へ引き取られたこども[#「こども」に傍点]の時分から、魚に餌《え》をやりつけているので、魚の主なものは見覚えてしまい、友だちか兄弟のように馴染《なじ》んでしまっていました。
 五月のある日、しぶしぶ雨が降る昼でした。淵の魚はさぞ待っているだろうと、昭青年は網代笠《あじろがさ》を傘《かさ》の代りにして淵へ生飯を持って行きました。川はすっかり霧《きり》で隠《かく》れて、やや晴れた方の空に亀山《かめやま》、小倉山《おぐらやま》の松《まつ》の梢《こずえ》だけが墨絵《すみえ》になってにじみ[#「にじみ」に傍点]出ていました。昭青年がいま水際に降りる岩石の階段に片足を下ろしかけたとき、その石の蔭《かげ》になっている岸と水際との間の渚《なぎさ》に、薄紅《うすべに》の色の一かたまりが横たわっているのが眼に入りました。瞳《ひとみ》を凝《こ》らしてよく見ると、それが女の冠《かぶ》るかつぎ[#「かつぎ」に傍点]であることが判《わか》り、それを冠ったまま、娘《むすめ》が一人|倒《たお》れているのが判りました。昭青年は急いで川砂利《かわじゃり》の上へ飛び下り、娘の傍《そば》へ駈《か》け寄って、抱《だ》き起しながら
「どうしたのですか」
 と訊《き》くと、娘は力無い声で、昨日から食事をしないので饑《う》えに疲《つか》れ、水でも一口飲もうと、やっと渚まで来たが、いつの間にか気が遠くなってしまったというのでした。
「それじゃ、幸い、ここに鯉《こい》にやる生飯があります。これでもおあがりなさい」
 鉢を差し出してやると、娘は嬉《うれ》しそうに食べ、水を掬《すく》って来て飲ませると、娘はやっと元気を恢復《かいふく》した様子、そこで娘の身元ばなしが始まりました。
 応仁《おうにん》の乱は細川勝元、山名宗全の両頭目の死によって一時、中央では小康を得たようなものの、戦禍《せんか》はかえって四方へ撒《ま》き散された形となって、今度は地方地方で小競合《こぜりあ》いが始まりました。そこで細川方の領将も、山名方の領将も国元の様子が心配なので取る物も取りあえず京都から引返すという有様。
 ここに細川方の幕僚《ばくりょう》で丹波《たんば》を領している細川|下野守教春《しもつけのかみのりはる》も、その数に洩《も》れず、急いで国元へ引返して行きました。教春の一人娘|早百合姫《さゆりひめ》は三年前、京都の戦禍がやや鎮《しず》まっていたとき、京都|滞陣《たいじん
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