岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)瀟洒《しょうしゃ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)内密|咄《ばな》し

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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      非有想非無想処――大智度論





[#ここから3字下げ]
時は寛保二年頃。
この作中に出る人々の名は学者上りの若い浪人鈴懸紋弥。地方藩出の青年侍、鈴懸の友人二見十郎。女賊目黒のおかん。おかんの父。
[#ここで字下げ終わり]

         一

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上目黒渋谷境、鈴懸の仮寓、小さいが瀟洒《しょうしゃ》とした茶室造り、下手《しもて》に鬱蒼《うっそう》たる茂み、上手《かみて》に冬の駒場野を望む。鈴懸、炉《ろ》に炬燵《こたつ》をかけて膝を入れながら、甘藷《かんしょ》を剥いて食べている。友人の二見、椽《えん》に不動みやげ餅花と酒筒を置いて腰かけている。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――芝の三田から中目黒の不動堂へ参詣《さんけい》して、ここまで尋ねて来るのに半日かかった。だがこの目黒というところはなかなか見どころの多いところだ。
――そうかね。住み馴れてしまうと面白くもないが、貴公は始めてだからだろう。
――あの行人坂とかいうきつい坂を下りたところの川の両側から畳み出した石の反《そ》り橋があるの、ありゃ珍らしい。
――この辺では太鼓《たいこ》橋といっとる。木食《もくじき》上人が架けたというが、たぶん、南蛮式とでもいうのだろう。
――白井権八小紫の比翼塚の碑があった。
――十年ばかり前に俳諧師が建てたというね。上方《かみがた》の心中礼讃熱が江戸にも浸潤して来た影響かな。心中する者より碑を建てる側の方がよほど感傷家だ。
――しばらく逢わなかったが、貴公、すこし窶《やつ》れたようだ。
――そうかな。自分ではあんまり気がつかんけれど。
――一たい、こういう生活で満足しとるのか。佗《わび》しそうだな。
――割合いに楽しいのだ。
――当時和漢洋の学者、青木昆陽先生の高弟で、天文暦法の実測にかけては、西川正休、武部彦四郎も及ばんという貴公が、どうしたことだ。

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