呼ばれし乙女
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)彷徨《うろつ》い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)電報|頂戴《ちょうだい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)きめ[#「きめ」に傍点]
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 師の家を出てから、弟子の慶四郎は伊豆箱根あたりを彷徨《うろつ》いているという噂《うわさ》であった。
 一ヶ月ばかり経つと、ある夜突然師の妹娘へ電報をよこした。
「ハコネ、ユモト、タマヤ、デビョウキ、アスアサキテクレ」
 受取って玄関で開いた千歳は、しばらく何が何やら判らなかった。慶四郎と姉となら、一時、ああいう話もあったのだから呼出すもよい。妹の自分を名指して何故だろう――いつの間にか姉娘の仲子が、千歳のうしろに来て、電報を覗き込んでいた。脆《もろ》くて、きめ[#「きめ」に傍点]が濃《こま》かく、寂しい気配の女であった。千歳はそのまま姉へ肩越しに電報を読み取らせた。仲子はそのまま千歳の脊中でじっと考えていたが、やがて臆病に一本の華著《きゃしゃ》な指先きで妹の脊筋を圧して、いつもの仲子のひそやかな声で囁《ささや》いた。
「行って上げなさい。お父さまには破門になってるし、私は家を取締っているし、あんたよりほかだめだと思ってだわ」
 事実、千歳の家では老父と姉妹の三人のほか家族として誰もいなかった。
「病気して、お金にでも困っているのね」
「そうよ、窮したら外に言って行くところも無い人だもの。家だって、千歳さんが慶四郎さんとは一番遠慮なくしてたんだから」
「でも、お父さまが、どう仰有《おっしゃ》るかしら」
「それは、私がとりなしとくわ」
 千歳は、姉のいう言葉が、いちいち尤《もっと》もだとは思った。だが、こういう常識的なとりなし[#「とりなし」に傍点]の分別ばかりあって、一度自分の婿《むこ》まで定りかけ、お互いの間にやや濃厚な気持さえ醸《かも》したらしい慶四郎の病気を、いくら名ざして来たとて妹の自分に任せようとする姉の陰性も嫌いだった。
 姉は、薄皮の瓜実《うりざね》顔に眉が濃く迫っている美人で、涙っぽい膨《は》れ目は艶ではあるが、どんな笑い顔をも泣き笑いの表情にして、それで平生は無難なまとまった顔立ちでも単純だった。たとえ、それが姉であっても千歳には何か飽足りないもどかしい感じだった。だが向き合ってみると亡き母に生うつしの姉だった。千歳は、そこにこの姉への懐しみといとしさを感じた。
 千歳は、くるりと姉の方へ向直った。そして、姉の左の手へ自分の右の手の指を合せながら、
「じゃ、まあ、行ってみるわ」
「そうなさい、そうしてよ」
 千歳は、この姉が、自分に出来ないことはいつも妹にして貰《もら》い、それによって様子の脈をひく性分であることも充分承知していた。
 千歳が、明日の朝の箱根行きの仕度《したく》をしに部屋へ引取ろうとすると、仲子は鼻声で言った。
「ちょっと、あたしに、その電報|頂戴《ちょうだい》よ」

 五月の薄曇りの午前に、千歳は箱根湯本の玉屋の入口の暖簾《のれん》を潜った。入れ違いに燕《つばめ》が白い腹を閃かして出た。
「やあ、来ましたね。よく来ましたね」
 明るい外から入って来たので、千歳の眩《くら》んだ眼にはよく判からなかったが、慶四郎は支度して玄関へ出て待っていたらしい。
「あら、病気だなんて……電報うったくせに」
「嘘じゃなかったけど、もう直った」
「まあ……」
 千歳が呆れるのも構わずに、慶四郎は無造作に千歳の肩を掴《つかま》えて向を変えさせ、腕を抱えてぐんぐん外へ連れ出した。家にいるときも慶四郎は悪気もなくよく突飛なことをする男だった。千歳は、今度も何か慶四郎の独り合点でこういう挙動をするのだろうと曳かれるままに連れられて表へ出たが、
「さようなら、お気をつけ遊ばして」
 と言って見送る女中達に千歳は慶四郎の露骨な振舞いが少しきまり悪かった。
 薄霧の曇りは、たちまち剥げかかって来た。競《せ》り上るように鮮かさを見せる満山の新緑。袷《あわせ》の紺飛白《こんがすり》に一本|独鈷《どっこ》の博多の角帯を締め、羽織の紐代りに紙繕《こより》を結んでいる青年音楽家は、袖をつめた洋装を着た師の妹娘を後に従えて、箱根旧街道へと足を向けた。右手の若葉の谷の底に須雲川の流水の音がさらさらと聞えた。
「先生は」
「丈夫よ」
「お姉さまは」
「丈夫よ」
「塾の凡庸な音楽家の卵たちは」
「相変らず口が悪いのね、みんな丈夫」
 それより千歳は、病気といって自分を呼び寄せた慶四郎の事情をも一度訊く気になった。
「ねえ、どうして、あんた病気だなんて私を呼んだ」
「そのことはもう言いっこなし」
「だって……変だわね、私、お金少し持って来たのに」
「そんな話、もうやめ
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