てお呉れ」
「変な人ね」
「ああ僕は昔から変な奴さ」
千歳は仕方がなくこんどは、さっき慶四郎がちょっと口を出した姉のことについて、ここで、もうすこし詳しく慶四郎と話し合おうとした。
「お姉さまも一緒に来ればよかった? お姉さま旅行すきでしたわね」
すると慶四郎は、一寸《ちょっと》たちどまってまじまじ千歳の顔を見たが、
「仲子嬢の話は、きょうはこれ以上、して貰い度くないな」
と言って、またむっつり慶四郎は歩き出した。
曾我堂を過ぎ、旧街道湯本の茶屋に着いた。晩桜《おそざくら》が咲いていた。
千歳は、ふと、着のみ着のままで父の家を出た慶四郎が、どうしてこのひと月を暮したか不思議がった。
「それ訊きたいわ」
「何でもないさ、東京近くのこの温泉なら先生の弟子だといってちょっと楽器を掴《つま》んでみせれば、座敷や家庭教師の口はいくらでもある。まあこのくらいな横着は先生にも大目に見て頂くさ」
麒麟児《きりんじ》といわれて十四の歳から新日本音楽の権威である千歳の父のもとに引取られ、厳しく仕込まれた慶四郎は、青年になるに随《したが》ってめざましく技倆を上げた。慶四郎は楽器から移って作曲の方へも頭を向けるようになった。慶四郎には独創に逸《はや》る若い芸術家にままある剛腹の振舞いが多くなった。それと一つは嫉《ねた》みもあって、同業の激しい排斥が起った。師自身も我慢仕切れず、内心愛惜の情に堪えない気持がありながらもとうとう表面上、この愛弟子を破門してしまった。
「破門されたため湯治が出来るなんて、仕合せな破門じゃないの」
「そうでもない。やっぱり、東京の演奏会の燭光はなつかしいものだ」
千歳の胸に、かつて、邦楽革新の新進作曲家として華やかしい期待を持たれていた慶四郎と、日蔭ものになって温泉場稼ぎをしている今の慶四郎とが比較された。気の毒だと思う一方、多少の小気味よさをも感じる。
山が高まって来て、明るく晴れたままで、うす霧が千歳の肩や頬に触れて冷え冷えとする。行く手の峰を越して見え出した双子山は絹のような雲が纏《まと》いつき、しばらくしてまたきれいに解け去り萌黄《もえぎ》色の山肌が青空からくっきり刻み出されている。谷底に横わる尾根の、翠《みどり》滴《したた》る大竹籔に老鶯《ろうおう》が鳴いている。
「あすこに白く細くちらりと見えるだろ。あれが躄《いざり》勝五郎の物語で有名な初花の滝さ」
少しわき道をして慶四郎は、千歳に滝を見せたりした。
またごろ[#「ごろ」に傍点]太石の街道が続く。陽はまぶしいほど山地に反射して、道端に咲くいちはつ[#「いちはつ」に傍点]の花が鋭い白星のように見える。千歳にうつらうつら襲って来る甘い倦怠《けんたい》――
千歳はいつか慶四郎の肩に頭を凭《もた》せて歩いている。
十年前、千歳が七八つの頃、慶四郎が父の内弟子に来てから、最初のうちは慶四郎は千歳の子守役、千歳が成長するにつれ縁日ゆきの護衛、口喧嘩の好敵手、時には兄妹のような気持にさえ、極めて無邪気な間柄であった。
だが父が、姉の仲子の養子に慶四郎を定めようとした時、すでに少女から娘に移っていた千歳は、何故か新らしく湧いた妙な味気なさを自分で不思議に思った。その縁談は、慶四郎の煮え切らない態度で有耶無耶《うやむや》になりそのまま今度の事件になってしまった。それゆえ、その時の味気なさを千歳は自分に追求するまでもなかったが、今度の破門についても、父が、慶四郎を今一年もしたらまた、迎い入れようという下心を娘達に話さなかったら、千歳にはかなり寂しい出来事だったに違いなかった。
今、山道で久しぶりに慶四郎の傍にいて、何か易々とした安心にゆるんで来て千歳は子供のときのように、うっかり慶四郎にもたれかかったりするのであった。
慶四郎は、その千歳をいとしそうに労《いたわ》りながら、
「疲れたのかい。もう少しの辛棒」
青葉の包みをほぐした中に在るように、須雲村が目の前に現れて来た。燻《くす》んで落付いた藁屋《わらや》が両側に並んでいる。村の真中の道に沿うて須雲川から下りた一筋の流れが走っている。覗くと水隈だけ見えて、水は眼にとまらぬ程きれいに底の玉石へ透き徹っていた。谷畑から採って来た鮮かな山葵《わさび》の束が縁につけてあるのがくんくん匂う。
「いいとこね。まるで古い油絵を剥《はが》してもって来たようね」
「気に入ったかい、まあ、ここにかけ給え」
慶四郎は温泉宿の祝儀手拭を取出して敷いた。千歳はそれに自分のハンケチを重ね、その上へ坐った。
慶四郎は無造作に傍の石に腰かけてしばらく莨《たばこ》を喫っていたが、やがて、しっとりとした声で言った。
「僕はこの前、ひとりでここへ来たとき、一つの夢を思い付いたのだ」
夢という言葉は慶四郎の口癖で楽人仲間では有名で
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