あった。
「そら、また慶四郎さんの夢が始まった……だが、こんどのはどんな夢」
「つまり、こういうんだ。あんたを一度この村へ連れて来て、このきれいな水で遊ばしてみたい。こんどの夢とはこれさ」
 千歳はそれを奇矯とも驚かなかった。彼女の周囲の音楽家達は、作曲に苦心するとき、霊感《インスピレーション》やヒントを得るために、普通では気狂い染みたと思われる所業も敢てする。現に慶四郎の傑作の一つとなっている新箏曲の小品「恋薺《こいなずな》」は、正月の七草を昔風に姉の仲子にはや[#「はや」に傍点]させて、その姿なり感じなりから取って慶四郎が作った新古典風の作品である。その時、羞《はずか》しがって俎《まないた》で野菜をはや[#「はや」に傍点]して切っていた姉の姿はおかしくも美しかった。
 だが、それは家の内でのことであった。こういう自然の風物の中で強いて一つの作業をさせられるのは、さすがに濶達《かったつ》な千歳にも俳優のロケーション染みて気がさした。
「あなたの今度の夢ってほんとにそれ? そのため、病気だなんていって私を呼びよせたの」
 慶四郎はむきになった声音で、
「僕は現実のことだと、ときどき出鱈目《でたらめ》もいうよ。しかし、夢の場合には絶対に真面目だ。だまして呼んだってわけでもないけど、僕の絶対真面目の要求だったんだから、かんにんしろよ、千歳さん」
 千歳はしばらく水を眺めて心を空しくしていたがふと慶四郎を顧ると驚いた。慶四郎は、いつの間にか、何かに憑《つ》かれているような顔になっている。千歳の右の手に視線を蒐《あつ》めている。その眼は鋭く凝って、盛上った黒い瞳は溶《とか》したような光に潤っている。
 千歳はこんな気味の悪い慶四郎を見たこともないが、また、こんな妖しく美しく青春に充された慶四郎を見たこともなかった。この天才の青年はいま芸魔に憑かれているのであろうか――苦しいほど快い脅えが千歳の身体の髄まで浸み、千歳を否応なしに弱気な娘にする。彼女はいま、美しい虹に分別の意を悉《ことごと》く閉され、ただ慶四郎の望むことなら何でも叶《かな》えてやり度い、慶四郎の望む夢なら自分にもまた願う夢であるという気持になり切ると、いつの間にか千歳は、慶四郎の望むままに水に向って手を差し伸べていた。
 腕頸に淡いくびれ[#「くびれ」に傍点]があり、指の附根の甲に白砂を耳掻きで掬《すく》った痕《あと》のような四つの小さい窪みのできる乙女の手は、いま水晶を溶したような水の流れを遮《さえぎ》る――水は潺湲《せんかん》の音を立て、流勢が勝って手に逆《さから》うとき水はまた淙々《そうそう》と響く。
「よし」
 暫くして慶四郎が夢から醒めた者のうめき[#「うめき」に傍点]のような声をたてた。
「僕が望んでいた曲の感じを掴えたよ、ありがとう千歳さん」

 二人は夕方、元箱根の物静な旅館に入った。入浴が終ると千歳は縁側に出て空を仰ぎながら言った。
「もう暮れ出したのね。私そろそろ東京へ帰らなければ」
 すると慶四郎はつかつか立って来て千歳の傍へ来た。そして率直に言った。
「東京へ帰らないで、これから僕と一緒に何処《どこ》までも行ってお呉れ、千歳さん」
「まあ、何故」
「僕、今度、またすばらしい夢を思いついたんだよ」
 千歳はとうとうこんな事になったのかと溜息をした。と同時に急に姉の泣き笑いの顔、それによく似た亡き母の面影までも二重になって千歳の眼に泛《うか》んだ。千歳はおろおろ声になって、
「後生《ごしょう》だからそんなこと言わないで、あなたはお父様にお詫びして姉様と一緒になって――」
 千歳が思わず取縋《とりすが》った慶四郎の手から、却《かえ》ってぴりぴりするような厳しい震えを千歳は感じた。
「姉さんは、僕にたった一つの夢しか与えなかった。あなたは僕に取って無限の夢の供給者だ」
「でも……」
「姉さんには気の毒だ。でも、芸の道は心弱くては行かれない道だ……それに千歳さんだって僕を嫌いではない筈だ」
 千歳は始めて剛腹な慶四郎が、涙を零《こぼ》すのを見た。
 千歳は頭を垂れたまま其処に立ちつくしている――それは肯定の姿とも暗黙の姿ともうけとれる――
 湖は暮れて来た。湖面の夕紫は、堂ヶ島を根元から染めあげ、真向いの箒ヶ崎は洞のように黝《くろず》んだ。大きな女中と、小さい女中が、
「暫らく停電いたすそうですから……」
 といいながら、大|蝋燭《ろうそく》の燭台と、ゆうげの膳を運んで来た。



底本:「岡本かの子全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「丸の内草話」青年書房
   1939(昭和14)年5月20日発行
初出:「令女界」
   1938(昭和13)年8月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito

前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング