来て湯に入る暇も無く強引にペンを走らせている。障子《しょうじ》の開《あ》け閉《た》てにその娘が欄干に凭《もた》れて中庭越しにこっちの部屋を伏目で眺めて居る姿が無意識の眼に映るけれども、私はそれどころでなく書きに書いて心積りした通り首尾よく大晦日《おおみそか》の除夜の鐘の鳴り止まぬうちに書き上げた。さて楽しみにした初湯にと手拭を下げて浴室へ下りて行った。
 浴槽は汲み換えられて新しい湯の中は爪の先まで蒼《あお》み透った。暁の微光が窓|硝子《ガラス》を通してシャンデリヤの光とたがい違いの紋様を湯の波に燦《きら》めかせる。ラジオが湯気に籠りながら、山の初日の出見物の光景をアナウンスする。
 湯の中の五六人の人影の後からその娘の瞳がこっちを見詰めている。今はよしと私はほほ笑んでやる。するとその娘はなよなよと湯を掻き分けて来て、悪びれもせず言う。
「お姉さま、お無心よ」
「なあに」
「お姉さまの、お胸の肉附のいいところを、あたくしに平手でぺちゃぺちゃと叩《たた》かして下さらない? どんなにいい気持ちでしょう」
 私はこれを奇矯な所望とも突然とも思わなかった。消えそうな少女は私の旺盛な生命の気に触
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