健康三題
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)度《た》い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)窓|硝子《ガラス》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)く[#「く」に傍点]の字
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     はつ湯

 男の方は、今いう必要も無いから別問題として、一体私は女に好かれる素質を持って居た。
 それも妙な意味の好かれ方でなく、ただ何となく好感が持てるという極めてあっさりしたものらしかった。だから、離れ座敷の娘が私に親しみ度《た》い素振りを見せるに気が付いても一向珍らしいことには思わなかった。仕事でも片付いたらゆっくり口が利ける緒口《いとぐち》でもつけてやろう。単純にそのくらいの察しを持合せていた。
 女中の言うところに依ると、その娘は富裕な両親に連れられて年中温泉めぐりをして居る所謂《いわゆる》温泉場人種の一人だった。両親が年老いてから生れた一人娘なので大事にし過ぎるせいもあり大柄の身体の割合いに生気が無く、夢見るような大きな瞳に濃い睫毛《まつげ》が重そうにかぶさっている。私は暮の二十五日に此の宿へ仕事をしに来て湯に入る暇も無く強引にペンを走らせている。障子《しょうじ》の開《あ》け閉《た》てにその娘が欄干に凭《もた》れて中庭越しにこっちの部屋を伏目で眺めて居る姿が無意識の眼に映るけれども、私はそれどころでなく書きに書いて心積りした通り首尾よく大晦日《おおみそか》の除夜の鐘の鳴り止まぬうちに書き上げた。さて楽しみにした初湯にと手拭を下げて浴室へ下りて行った。
 浴槽は汲み換えられて新しい湯の中は爪の先まで蒼《あお》み透った。暁の微光が窓|硝子《ガラス》を通してシャンデリヤの光とたがい違いの紋様を湯の波に燦《きら》めかせる。ラジオが湯気に籠りながら、山の初日の出見物の光景をアナウンスする。
 湯の中の五六人の人影の後からその娘の瞳がこっちを見詰めている。今はよしと私はほほ笑んでやる。するとその娘はなよなよと湯を掻き分けて来て、悪びれもせず言う。
「お姉さま、お無心よ」
「なあに」
「お姉さまの、お胸の肉附のいいところを、あたくしに平手でぺちゃぺちゃと叩《たた》かして下さらない? どんなにいい気持ちでしょう」
 私はこれを奇矯な所望とも突然とも思わなかった。消えそうな少女は私の旺盛な生命の気に触
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