った。その不意の不思議な感覚に向って三人の全精神が引き込まれた。そこで三人は冷やかな沈黙に落ちた。魂の底を突き抜けて虚無の中にまで沈んだような、脱力の沈黙であった。茫漠とした沈黙であった。其処から一番早く這い上ったアイリスではあったが、今は少しの感情の負担にも堪えられそうも無い程脳が疲れて居た。
 近頃二人の男の間に挟まり、毎日続く焦慮にすっかり気持ちの制禦を失って居た彼女は、空《から》元気さえもう長く張りつめて居られなかった。彼女は白磁のように自い気品のある顔の表面をなお更ら無理に緊くして二人の男に命令した。
 ――私の為めに決闘しなさい。
 ――ふふん。
 ジョーンは苦笑した。さっきからこづき廻された気分がつかえて吐気がして来た。眩暈《めまい》がしそうだ。が、アイリスは邪険に二人を両方へ押しやった。
 ――さあ、始めるんです。
 ――ピストルでやるんだ。
 と言ったのはワルトンであった。彼は手真似のピストルを擬し、決闘の真似事でもすれば、気持や体をそう動かさず簡単に此の場が片附くと思いついたのだ。
 男達は向き合った。右手を握り人差指だけを延ばしてピストルの形を造り、左腕を水平に曲げた上へ載せた。男達は合図をつまらなそうに待った。
 ――用意、――始め!
 ――ぱん。
 二人は同時に口を弾いて怒鳴った。ワルトンは自分の左胸を両手で押えて、わざと芝生の上に倒れた。
 ――射たれた。
 ワルトンは倒れると直ぐ少しおどけた風に細眼を開けてアイリスの機嫌を覗いた。
 ――は、は、は、は。
 無力な声でアイリスは笑った。妙に情け無い顔をして彼女は笑った。今では彼女は男達が何をしようと構《かま》わない気がした。実際どうでもよかった。が、それでも余りに男達の決闘の真似事があっけなくて不満だったし、もう少し男達に離れて居て貰いたかった。
 彼女は詰らなそうに小首を傾げて停って居た。ジョーンは何事も無かったように無表情な顔付きで、ピストルの形をした右手を下げて元の場所に突っ立って居た。それでも硬ばった気持ちがまだ胸にのこって居た。生来陽気であったワルトンは此の冷やかに淀んだ気配の中に住む事は寸刻も出来なかった。何かをふっとばしたかった。そうしたら何かそのあとから大変気に入った事でも出現するように思えた。そこで彼は強いて弾んだ調子でジョーンに飛び付いた。
 ――おい、レスリングをしよう。
 そう言ってジョーンの両肩をゆすぶった。気抜けして全関節が無抵抗になったジョーンの体を、ワルトンはごつごつと押し曲げたり、引き寄せたりした。ジョーンは危なく倒れそうになって逆に緊張した。その緊張は相手の攻撃を増加させて、また一層緊張した。ジョーンは受身|許《ばか》りでは居られなかった。ジョーンの肉は先ず反撥的に屈伸した。やがて二人の男の肉は、怒った骨につっ張られて劇《はげ》しく衝突した。湿気を含んで柔らかな芝土は、男達の奮張《ふんば》る四つの靴で押し込まれ、跳ね返った。透明な芝草がよじれて引っちぎられて、飛び立つ羽虫のように飛んだ。
 青年の生一本の競争慾は、いい加減で中止出来なかった。力闘は益々劇しくなって行った。縺《もつ》れ合う肉と肉との間から、突然叫びが起った。続いて他の叫びが相応じた。
 ――あ、此奴。
 ――おや、拳闘で来るか。
 二人は弾《はじ》かれたように取っ組んだ両手を離した。改めて二人は互の顔を見た。許すまじき忿怒《ふんぬ》の相を認め合って殺気立った。遂《つい》に劇しい素手の拳闘が始まってしまった。二人は遂に到着すべきところに、まっしぐらに飛びかかって行った。飛びかかり飛びすさりしながら、募る恨みと憎しみに、二人は腕を張り切らせて遮二無二相手に投げ付けた。――これでもか、俺の呪いと憎みを知れ――と、双方の一つ一つの拳が嘆いて喰らいつく。それは肉体の打撃や痛みに止まらなかった。身に滲み渡る痛みによって二人は二人の底意を読んだ。盛り上る血肉の力闘の勢いに押されて彼等は互に対する平常の気持ちの我慢を突き破った。アイリスを中に挟んで日頃潜在して居た二人の憎悪が表面切って燃え立った。
 ジョーンの父は庭師《ガードナー》であった。近頃では彼の父のお顧客はロンドンの西郊の方にばかり殖えた。欧洲の何処の都会でもそうであるように、ロンドンでも東端は貧民街であった。立派な邸宅を持つ富豪は西へ、西南へと居を移した。ジョーン達の住んだロンドン東端の借屋は、余り遠くお顧客の庭から離れてしまった。で彼等は先月初めに西端の或る横町へ引越さねばならなかった。その方がジョーンの父にとっては非常に都合がよかった。引越しでジョーンは近所のアイリスと離れて住まねばならなかった。それはジョーンを一寸淋しそうにも思わせたが、又何となく楽しいアイリスとの別居のようにも仮想させた。彼は下町に在る大学からの帰途、アイリスを訪ねた。その都度《つど》二人は見違えるような新生面を以って向い合った。色々の事が談したかった。些細な事まで聴きたかった。彼等は教会小学校へ始めて登校した頃からの二人の間に行われた、たわいも無い我慾の事を想い出した。これから、どうしなければならないかと言うことも一寸は考えた。それよりも二人は現在何処かへ出かけたかった。何かしたかった。何か本当に楽しい事が無いのかと望んだ。そうでなければ命がけの喧嘩でもしたかった。二人は希望を以って逢った。訳の解らぬ不満を以って二人は離れた。また何時逢うかを相談したり約束したりして二人は離れた。お互に対する希求は強くなった。それだけ不満は増した。お互の無情が余計に眼に付いた。無情許りの化身のように見えた。やがて嘆きと怒りが二人の腹の中に夜昼渦巻くようになった。どうする事も出来なかった。ジョーンを一層不幸にさせたのは友達のワルトンとアイリスとの交遊であった。
 アイリスが嘗《かつ》て嫌って居たワルトンが、近頃ではアイリスの話題に屡々《しばしば》のぼった。時にはアイリスがワルトンを誘って二人の間に入れることさえあった。眼前にワルトンのつべこべ[#「つべこべ」に傍点]とアイリスに取り入る態度を見てはジョーンの血はたぎった。ジョーンは上面《うわべ》では大様《おおよう》を装って居た。女に、殊に幼な馴染《なじみ》のアイリスに性慾を感じさせるような身振りや囁《ささ》やきをどうしても彼はすることが出来なかった。彼は自分の手も足も出せない不器用さが口惜しかった。ワルトンに先手を次ぎ次ぎに打たれて勢いジョーンは退嬰的にばかりなった。三人で散歩するにも活動を見物に行くにも、何もかも、ジョーンはまるでワルトンに連れられて行くようであった。其処にアイリスが殆んど居ないのも同然であった。もう以前のアイリスは消失してしまって、今ではワルトンに包まれた混合物のようなアイリスが居た。ジョーンは正真正銘のアイリスが見たかった。不純物を取り除きたかった。不純物を二度と再びくっ付かぬようにしたかった。本当にはっきりそうしたかった。腕で引き裂いて総歯で噛み砕いて、滓《かす》にして吐き出して、それを靴の踵《かかと》で踏みにじって、それから火葬場の炉の中ですっかり焼き尽してしまいたかった。それでもまだ灰や煙がすらすら抜け出てアイリスにくっ付くような気がしてならなかった。憤りと呪いと不安とでジョーンは痩せて熱かった。
 ジョーンに引越されてしまったワルトンは友達を一人失った。彼にとってジョーンは碇《いかり》であった。時には厄介千万であったが、又時には落付かせて呉れる錘《おもり》であった。嫌に取り済《すま》したのが生意気に見えて癪《しゃく》に触ったが、懐《なつ》かしくも思った。嘗てアイリスの家の近くに居たジョーンは、彼女を連れてよくワルトンの家へ誘いに来たものだった、今ではアイリスが独りで居た。独りのアイリスは急に大人になったように見えた。奇妙に見えた。そのままにさせて置けない気がした。どうにかしてやらなければどんなになるか解らないように危なげに見えた。ワルトンにはアイリスの近頃の生活が急に淋しそうに見えて可憐《いじ》らしかった。彼の父の家である雑貨店の店先きで彼女によく逢った。銀行の会計事務を済ますと几帳面《きちょうめん》に真直ぐに帰宅する彼女をワルトンは大抵午後四時半に待って居た。アイリスの眼差しの中に、彼は質間と哀願と慈愛を見るようになった。二人は挨拶を交わした。一寸した立話をした。それはジョーンが引越して暫くしてからの事であった。それから二人は時々ジョーンの事を話したり訊いたりして其処等辺を散歩した。近所の町を散歩した。ずっと遠くまで歩き廻った。いくら遠くまで散歩しても二人の話はお終《しま》いにならなかった。ジョーンの事を話題にするのは今では全く面白くなかった。もう話題にのぼらなかった。アイリスを喜ばせ笑わせ、生き生きと輝かせて、その生の燃焼の中にワルトンは自分自身を飛び廻らせたかった。自分自身を一緒にくっつけてしまいたかった。此頃からジョーンはアイリスを訪ねて逢えない日があった。
 ワルトンは過ぎ去った四月二十二日を忘れない。その日は銀行休日《バンクホリデー》であった。ロンドンの恋人達を夢中にさせる日であった。少々野卑ではあったが、耳を叩き破る程の騒音と強烈なウイスキーが市内に居残った人々を無暗《むやみ》と弾ませた。気違いじみさせて、終いにはどうなるか解らぬ程、疲らせた。約束したジョーンは、アイリスを誘いに来た。彼女はワルトンと一緒になって待って居た。三人はぎこちない気持で、町中や公園の喧騒の中を歩き廻った。が、晩になった、ジョーンは帰らねばならなかった。アイリスの町の近くで彼女とワルトンと二人切りにしてジョーンは離れて行かねばならなかった。彼は自分の心配を運命に任せて元気よさそうに帰って行った。ワルトンは本当に幸福であった。彼の思うようにアイリスは喜んで呉れた。彼より余計に彼女は彼を頼って呉れた。もう夜中に近づいて居た。おどけたりよろけたりした二人は一寸疲れを休めに町角の小公園の灌木の間に入って行った。接吻は優しく骨身に滲みたのであった。翌朝ワルトンは、今日からどんな喜びの緊張と心の自由があるだろうかと、胸をわくわくさせて跳ね起きたが、アイリスの出勤前を道に擁して逢った時、すっかりワルトンの期待は外ずれた。アイリスは昨夜の一時的亢奮の冒険を苦々《にがにが》しく思って居た。彼女の性に対する好奇心が、あんなにもたわいなくワルトンに乗ぜられた事が、じっとして居られない程口惜しかった。感情の反動でワルトンと彼女は殆んど口を利かなかった。彼女の内に籠っての無表情と無口はワルトンを狼狽《ろうばい》させ、殆んど彼女に腕力を加え度いほど憤らせた。でも、その後、彼女は気持よく晴れた空気の中で、すがすがしい緑樹の蔭で、時には打ち解けてワルトンを懐かしそうに見えた。夢遊病者のように幽幻に彼女が振舞うのにワルトンは暫らく見とれた。が、それ等の彼女の美点は、ワルトンに少しも関係の無い気がし出した。全く彼女の彼に対する反応はほんの僅かであった。ワルトンは寂しくて馬鹿らしくて仕様がないのであった。でも彼は楽天主義者であったから、期待は細々と持ち続けた。半月以上経って、アイリスが自分と同程度にジョーンを遇するのを知って、ワルトンは意気込んだ。彼は元気を出した。余計に自分を意識して、自分の力を信じた。彼女を自分の庇護《ひご》の下に連れて来ようと思い暮した。彼はジョーンに今直ぐにも鼻をあかしたかった。屹度《きっと》それが出来るとワルトンは信じて居た。ジョーンを物の数にもしなかった。
 それが、そのジョーンが、今こんな暴力でワルトンを撲《なぐ》った。気が遠くなる程叩き付けた。ワルトンは意外にジョーンを大敵だと知って怒張した。決死の闘争が二人を捕らえた。
 ジョーンとワルトン、今は何を置いても相手を一つでも余計に撲りたかった。突きたかった。彼等はだんだん闘争そのものになって行った。彼等の意識には今はアイリスも無かった。決闘場も無かった、晩春も、午後の陽射しも、何もかも無かった。唯々衝突が、岩に当る怒濤
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