《どとう》のように繰返された。彼等は息が切れた。声をも立てられなかったのに、其処には劇しい騒音があった。
アイリスは、地を蹴る乱雑な響に腹底をいたぶられた。二人の交互に鼻血を啜る音を聞いた。猛獣の荒々しい呼吸づかいさえ感じて総毛立った。これらの雑音の間に交って、骨と骨との衝突する音は如何にも荒廃の不気味さをアイリスの心に響かせた。
彼女はどうしていいか全く判らなくなった。
留める事は思い及ばなかった。此のやけの命がけの闘いは彼女を惨酷に引き裂くようで恐ろしかった。彼女の体は男達の周りを右往左往した。彼女は男達の血の闘争に彼女自身も加わったような気がした。此の決闘の原因が自分にあることを彼女は勿論《もちろん》知って居た。が、彼女は強《し》いて責任を感じまいと努めた。強いて無関心で居たかった。醜く腫《は》れ上り更に鼻血や脂汗《あぶらあせ》で泥土のように汚ごした顔を、疼痛と憤怒と息切れでもみくちゃ[#「もみくちゃ」に傍点]にひんまげた男達は、最早《もは》や彼女の友達ではない。勿論恋人に出来そうもなかった。撹き乱された髪、充血に腐った眼、よじれ果てた服、痙攣《けいれん》して居る四肢、そんな男達は、彼女にとって他人であった。乞食の喧嘩だった。獣の噛み合いであった。今にも死が覗きそうであった。
彼女は一刻も早く此の場を遁れたかった。が彼女の体がまだ其の場にくっついて居た。彼女は焦《じ》れた。でも次第次第に彼女は決闘場から後じさりに離れて行った。そっと忍び出る小娘のようにおどおどしながら。彼女は灌木が大きな茸《きのこ》のように生え群がる間を抜けて、鬱蒼《うっそう》とした雑木林の中に潜入した。出た処はケンウッドの森の一寸した突出部であった。小鳥の巣が雑木の梢《こずえ》に沢山在るらしく色々の鳴鳥が、勝手に自我を主張して鳴いて居た。一帯に青臭い草や樹の葉のいきれが満ちて、其の中に這入って行く者を重苦しく落ち付かせた。アイリスは大分深く潜入して居た。周りを丈の低い灌木にすっかり取り囲まれて僅かに彼女独りがしっくり樹葉に覆い隠されてしまう場所に来て居た。彼女は芝草の上に膝を斜めに折り屈げて、器械細工のように坐った。両手は無意識の内に膝の上で握り合された。そこで彼女は三度も四度も太い長い溜息を洩《もら》した。絶望と嫌悪が彼女の気力を滅入らしてしまって居た。茫漠と彼女は周囲の樹木や草と一体になって時を経過して行った。彼女は自然そのままだった。悠久の命の流れに寂然と身を委《まか》せて居た。国亡びた後の山河に、彼女は独り生き残って居るようであった。彼女は自分と現世とをまったく忘れて居た。
突然、彼女は身近くを、そそくさと通り過ぎて行く二人連らしい女の足音に驚かされた。彼女は何か非常に恐ろしかった。自分をこれほど無力に感じた時は今までに無かった。息を殺して警戒した。彼女のとぎすまされた聴覚に別な男性らしい二人連れの近づいて来る音をも聞き分けた。
――|おい《ハロウ》、|相手が見付かったかい《ゴットアマン》。
――……………………………
土曜の晩近くなって急に遊び相手をあわてて求め出した男連れが、当り触りの無いように軽く女連れに誘いをかけたらしかったのだ。なんだ、そんな人達だったのか――と彼女はほっとした。呼びかけられた女達は何とも言わなかった。そして男も女も遠のいて行ってしまった。彼女は、男達の投げた誘いの網を、女達がどうあしらうかと一寸好奇心を起した。だが女達は相手にもならずに去って行った。なんでも無い人事の期待外れは、変な風に彼女自身の内に返答を求めた。「相手が見付かったか?」と彼女の耳の中に大きく響き渡ったのに彼女は全く驚いたし、またあわてた。彼女は自分の脳の中を覗いて見た。胸の中も腹の中も、そして恥かしかったが一寸××の中も覗いて見た。何処にも彼女の希求した男の影は無かった。どんなに探しても見付からなかった。生れた時から今までの生存の間に逢った男達の顔が、何れ一つとして彼女の前に判っきりと出現権利を主張するものが無かった。
「まだ私は相手が見付からない。私の思う人は何時、どうすれば掴まえることが出来るか。器量は、良ければ尚良いけれど、そんな常識的の美男子でなくとも、男としての特長に映えた素晴らしい人、その人の考える事、言う事、為す事、つまりその人の命が、宇宙の生命と連《つな》がって脈動しているような人、その人に抱かれる時私の疲れて崩れかけて居る魂が生き生きと甦《よみが》えるような霊智の人、肉体の人、その人が私は欲しいのだ。何処に居るのだろう。案外自分の近くに居るかも知れない。一刻も早く見付けよう。もう私は二十二だと言うのに、……………ジョーンやワルトン、あんな男達と押し合って居る時じゃない、二人を見捨てよう。そして新らしく私は私の希願に向って進んで行こう」
アイリスは少女らしい希望に亢奮して双の拳で辺りの空を切った。そして腰にも脚にも獲得の気概の弾力をこめて立ち上った。
彼女は決闘場へ立寄りはしなかった。彼処の男達の闘争の成行も流石《さすが》に気にはかかったけれど、彼女はだんだん其処から遠退いて行った。最早や用の無い男達の戦う決闘場から少しも早く彼女は離れて行かなければならなかった。
底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「夏の夜の夢」版画荘
1937(昭和12)年11月20日発行
初出:「ペン」
1936(昭和11)年11月号
入力:門田裕志
校正:オサムラヒロ
2008年10月15日作成
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