決闘場
岡本かの子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)楡《にれ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)白|雉子《きじ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
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ロンドンの北隅ケンウッドの森には墨色で十数丈のシナの樹や、銀色の楡《にれ》の大樹が逞《たく》ましい幹から複雑な枝葉を大空に向けて爆裂させ、押し拡げして、澄み渡った中天の空気へ鮮やかな濃緑色を浮游させて居る。立ち並ぶそれらの大樹の根本を塞《ふさ》ぐ灌木《かんぼく》の茂みを、くぐりくぐってあちらこちらに栗鼠《りす》や白|雉子《きじ》が怪訝《けげん》な顔を現わす。時には大きい体の割りに非常に素早しっこい孔雀《くじゃく》が、唯《た》った一本しか無い細い小路に遊び出て、行人の足を止めさせることもある。
此のケンウッドの森の真中の、約一丁四方程の明るく開けた芝生の中に、薔薇《ばら》の花園の付いた白亜の典雅な邸宅が建っている。ケンウッドの主であった故エドワード・セシル卿は、彼の別邸である此のケンウッドの邸宅と其の中に蒐集《しゅうしゅう》されてある数十枚もの世界的名画や貴重な古代の器具を、周囲の花園や広大な森を含む七十四エーカーの土地と共に一般公衆に遺贈した。そして維持費として五万|磅《ポンド》を添えたのであった。
此のケンウッドの森は、その東南に連なる自然公園のゴルダースグリーンやハムステッド丘に散在する色々の記念物――詩人キーツの家やフランス喜劇作家モリエールの嘗《かつ》て住んだ家、丘の上の城ホテル、詩人バイロン卿や名宰相ピットの家、初期の英国議会を爆破しようとしたガイホークが展望台と定めたパーリアメント・ヒルなどと共に、由緒古跡に富むロンドン北郊の歴史的場所である。が、誰でも直《す》ぐに知ることの出来るこれ等の有名な古跡の外に、森の南端のハムステッド丘との境界近く、ずっと昔から何百年間も使われた旧い決闘場の跡で、今もその儘《まま》に残って居る一劃がある。
まばらに生えた白樺の木立に取り囲まれ、幅四間、長さ十間程の長方形の芝生で、周辺の芝生より一尺程低くなって居る。此の決闘場は、周囲の歴史的雰囲気に色彩《いろど》られて、其の来歴を少しでも知る人々に特種な空想と異様な緊張を与えるのだが、通りすがりの人に取っても、正確に一間|隔《お》き位いにつっ立って居る白樺の木立ちの物淋しい感じや、なんの変哲も無く一段と低くなった長方形の地面が、どういう場合に使った跡か一寸解し兼ねる処に、何んとなく恐ろしいような物珍らしさが手伝って我れ知らずじっと見入るように引きつけられるのであった。
此の決闘場へ近づいて来た三人組があった。
女一人に男二人、三人の互に異なった若い活気のため片輪のように何かぴったりしない組合せであった。真中に挟まれて女は何もかも可なりゆがんでしまって居た。頭も顔も体も、心までもゆがんでいた。ゆがんだ儘、女は二人の男を左右にくっつけてふらつくように歩いて来た。
二人の男達は、ロンドン大学の学生であった。ジョーンの方は人のよさそうな、少し鈍重な感じがする男であった。彼は真中の女に左腕を組まれて居た。金髪は彼の四角い頭を柔かく包んで居た。碧色の瞳は何処と信って確《し》っかり見詰めないような平静な光りを漾《ただ》よわせて居る。が、時折り突き入るように尖《とが》ってきらめくこともある。金色の粉を吹いたような産毛《うぶげ》が淡紅色の調《ととの》った顔をうずめて居る。
彼は中背で小肥りの体を、金髪に調和する褐色のツウィードの服で包んで居る。時々女のおどけた調子に、にやにや白歯を出して微笑しながら、ジョーンは体を真直ぐにして歩るいて行く。
ワルトンは丈《たけ》の高い痩型の青年だ。如何にもきびきびした学生らしく、ニッカーボッカーを穿《は》いて居る。女を自分|許《ばか》りのものだと引っ張り寄せるように右腕で女の左腕を抱き寄せて居るが、女はそれがまんざらでもないらしくあしらい乍《なが》ら強《し》いて彼に引き寄せられまいとしてジョーンの左腕にすがって居るようにも見える。
ワルトンは、栗色の髪を油でこてこてにした頭を、女の顔にぶっつかる程突き出して、褐色の瞳を小賢《こざ》かしく、女の瞳に向き合せながら、幾分細長い顔にちょいちょい小皺を寄せる。彼は女に話しかけるのに夢中である。従って彼のニッカーボッカーを穿いた両脚は勝手に動いて奇術師のようにふらふら調子を取りながら時々小石や小径のふちの雑草の根本に躓《つま》ずいて妙に曲る。
異った二人の男に左右から挟まれて歩いて居た女アイリスは、急に二人を意地
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