れて行った。

 復一はそれとない音信を時々真佐子に出してみるのであった。湖水の景色の絵葉書に、この綺麗《きれい》な水で襯衣《シャツ》を洗うとか、島の絵葉書にこの有名な島へ行く渡船に渡し賃が二銭足りなくて宿から借りたとか。
 すると三度か四度目に一度ぐらいの割で、真佐子から返信があった。それはいよいよ窈渺《ようびょう》たるものであった。
「この頃はお友達の詩人の藤村《ふじむら》女史に来て貰って、バロック時代の服飾《ふくしょく》の研究を始めた」とか「日本のバロック時代の天才彫刻家左|甚五郎《じんごろう》作の眠《ねむ》り猫《ねこ》を見に日光へ藤村女史と行きました。とても、可愛《かわい》らしい」とか。
 いよいよ彼女《かのじょ》は現実を遊離する徴候《ちょうこう》を歴然と示して来た。
 復一はそのバロック時代なるものを知らないので、試験所の図書室で百科辞典を調べて見た。それは欧洲《おうしゅう》文芸復興期の人性主義《ヒューマニズム》が自然性からだんだん剥離《はくり》して人間|業《わざ》だけが昇華《しょうか》を遂《と》げ、哀れな人工だけの絢爛《けんらん》が造花のように咲き乱れた十七世紀の時代様式ら
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