のような俵形にこんもり形を盛り直している。
耳の注意を振り向けるあらゆるところに、潺湲《せんかん》の音が自由に聴き出され、その急造の小|渓流《けいりゅう》の響きは、眼前に展開している自然を、動的なものに律動化し、聴き澄している復一を大地ごと無限の空間に移して、悠久に白雲上へ旅させるように感じさせる。
もろもろの陰は深い瑠璃色《るりいろ》に、もろもろの明るみはうっとりした琥珀色《こはくいろ》の二つに統制されて来ると、道路側の瓦《かわら》屋根の一角がたちまち灼熱《しゃくねつ》して、紫白《しはく》の光芒《こうぼう》を撥開《はっかい》し、そこから縒《よ》り出す閃光のテープを谷窪のそれを望むものものに投げかけた。
鏡面を洗い澄ましたような初秋の太陽が昇ったのだ。小鳥の鳴声が今更賑わしく鮮明な空間の壁絨《へきじゅう》をあっちへこっちへ縫いつつ飛ぶ。
極度の緊張に脳貧血を起していったん意識を喪《うしな》い、再び恢復して来たときの復一の心身は、ただ一|箇《こ》の透明《とうめい》な観照体となって、何も思い出さず、何も考えず、ただ自然の美魅そのままを映像として映しとどめ、恍惚そのものに化していた。
彼は七つの金魚池の青い歪《ゆが》みの型を、太古の巨獣《きょじゅう》の足跡のように感じ、ぼんやりとその地上の美しい斑点に見とれていた。陽が映り込んで来て、彼の意識もはっきりして来ると、すぐ眼の前の古池が、今始めて見る古洞《こどう》のように認められて来た。それは彼の出来損じの名魚たちを、売ることも嫌い、逃しもならぬままに、十余年間捨て飼いに飼っておいた古池で、宗十郎夫婦の情で、ときどき餌を与えられていたのであったが、夫婦の死後は誰も顧《かえりみ》るものもなく憐れな魚達は長く池の藻草や青みどろで生き続けていたのであった。この池の出来損いの異様な金魚を見ることは、失敗の痕《あと》を再び見るようなので、復一はほとんどこの古池に近寄らなかった。ときどきは鬱々《うつうつ》として生命を封付けられる恨《うら》みがましい生ものの気配《けは》いが、この半分|古菰《ふるこも》を冠った池の方に立ち燻《くすべ》るように感じたこともあるが、復一はそれを自分の神経衰弱から来る妄念《もうねん》のせいにしていた。
いま、暴風のために古菰がはぎ去られ差込む朝陽で、彼はまざまざとほとんど幾年ぶりかのその古池の面を見た。その途端、彼の心に何かの感動が起ろうとする前に、彼は池の面にきっと眼を据え、強い息を肺いっぱいに吸い込んだ。……見よ池は青みどろで濃い水の色。そのまん中に撩乱として白紗《はくしゃ》よりもより膜性の、幾十筋の皺がなよなよと縺《もつ》れつ縺れつゆらめき出た。ゆらめき離れてはまた開く。大きさは両手の拇指《おやゆび》と人差指で大幅に一囲みして形容する白|牡丹《ぼたん》ほどもあろうか。それが一つの金魚であった。その白牡丹のような白紗の鰭には更に菫《すみれ》、丹《に》、藤《ふじ》、薄青等の色斑があり、更に墨色古金色等の斑点も交って万華鏡《まんげきょう》のような絢爛、波瀾を重畳《ちょうじょう》させつつ嬌艶に豪華《ごうか》にまた淑々として上品に内気にあどけなくもゆらぎ拡《ひろ》ごり拡ごりゆらぎ、更にまたゆらぎ拡ごり、どこか無限の遠方からその生を操られるような神秘な動き方をするのであった。復一の胸は張り膨らまって、木の根、岩角にも肉体をこすりつけたいような、現実と非現実の間のよれよれの肉情のショックに堪え切れないほどになった。
「これこそ自分が十余年間苦心|惨憺《さんたん》して造ろうとして造り得なかった理想の至魚だ。自分が出来損いとして捨てて顧みなかった金魚のなかのどれとどれとが、いつどう交媒して孵化して出来たか」
こう復一の意識は繰り返しながら、肉情はいよいよ超大な魅惑に圧倒され、吸い出され、放散され、やがて、ただ、しんと心の底まで浸《し》み徹《とお》った一筋の充実感に身動きも出来なくなった。
「意識して求める方向に求めるものを得ず、思い捨てて放擲した過去や思わぬ岐路《きろ》から、突兀として与えられる人生の不思議さ」が、復一の心の底を閃めいて通った時、一度沈みかけてまた水面に浮き出して来た美魚が、その房々とした尾鰭をまた完全に展《ひら》いて見せると星を宿したようなつぶらな眼も球のような口許も、はっきり復一に真向った。
「ああ、真佐子にも、神魚華鬘之図にも似てない……それよりも……それよりも……もっと美しい金魚だ、金魚だ」
失望か、否、それ以上の喜びか、感極まった復一の体は池の畔の泥濘《でいねい》のなかにへたへたとへたばった。復一がいつまでもそのまま肩で息を吐き、眼を瞑っている前の水面に、今復一によって見出された新星のような美魚は多くのはした[#「はした」に傍点]金魚を随《したが
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