真佐子は相変らず、ときどきロマネスクの休亭に姿を見せた。現実の推移はいくらか癖づいた彼女の眉の顰《ひそ》め方に魅力を増すに役立つばかりだ。いよいよ中年近い美人として冴え返って行く。
昭和七年の晩秋に京浜に大暴風雨があって、東京市内は坪《つぼ》当り三|石《ごく》一|斗《と》の雨量に、谷窪の大溝も溢れ出し、せっかく、仕立て上げた種金魚の片魚を流してしまった。
同じく十年の中秋の豪雨は坪当り一石三斗で、この時もほとんど流しかけた。
そんなことで、次の年々からは秋になると、復一は神経を焦立《いらだ》てていた。ちょっとした低気圧にも疳《かん》を昂《たか》ぶらせて、夜もおろおろ寝られなかった。だいぶ前から不眠症にかかって催眠剤《さいみんざい》を摂《と》らねば寝付きの悪くなっていた彼は、秋近の夜の眠のためには、いよいよ薬を強めねばならなかった。
その夜は別に低気圧の予告もなかったのだが、夜中から始めてぼつぼつ降り出した。復一は秋口だけに、「さあ、ことだ」とベッドの中で脅《おび》えながら、何度も起き上ろうとしたが、意識が朦朧として、身体もまるで痺《しび》れているようだった。雨声が激しくなると、びくりとするが、その神経の脅えは薬力に和《なご》められて、かえって、すぐその後は眠気を深めさせる。復一はベッドに仰向けに両肘を突っ張り、起き上ろうとする姿勢のまま、口と眼を半開きにしてしばらく鼾《いびき》をかいていた。ようやく薬力が薄らいで、復一が起き上れたのは、明け方近くだった。
雨は止んで空の雲行は早かった。鉛色《なまりいろ》の谷窪の天地に木々は濡《ぬ》れ傘《がさ》のように重く搾《すぼ》まって、白い雫《しずく》をふしだらに垂らしていた。崖肌は黒く湿って、またその中に水を浸み出す砂の層が大きな横縞《よこじま》になっていた。崖端のロマネスクの休亭は古城塞《こじょうさい》のように視覚から遠ざかって、これ一つ周囲と調子外れに堅《かた》いものに見えた。
七つ八つの金魚は静まり返って、藻や太藺《ふとい》が風の狼藉の跡に踏みしだかれていた。耳に立つ音としては水の雫の滴《したた》る音がするばかりで、他に何の異状もないように思われた。魯鈍《ろどん》無情の鴉《からす》の声が、道路傍の住家の屋根の上に明け方の薄霧《うすぎり》を綻《ほころ》ばして過ぎた。
大溝の水は増したが、溢れるほどでもなく、ふだんのせせらぎはなみなみと充ちた水勢に大まかな流れとなって、かえって間が抜けていた。
「これなら、大したことはない」
と復一は呟きながら念のためプールの方へ赤土路をよろめく跣足《はだし》の踵《かかと》に寝まきの裾《すそ》を貼り付かせ、少しだらだらと踏み下ろして行った。
プールが目に入ると、復一はひやりとして、心臓は電撃を受けたような衝動を感じた。
小径の途中の土の層から大溝の浸《し》み水が洩《も》れ出て、音もなく平に、プールの葭簾を撫《な》で落し、金網《かなあみ》を大口にぱくりと開けてしまっている。プールに流れ入った水勢は底に当って、そこから弾き上り、四方へ流れ落ちて、プールの縁から天然の湧き井の清水のように溢れ落ちていた。
復一が覗くと、底の小石と千切られた藻の根だけ鮮かに、金魚は影も形も見えなかった。
復一はかっとなって、端の綴《と》じが僅《わず》か残っている金網を怒《いか》りの足で蹴《け》り放った。その拍子《ひょうし》に跣足の片足を赤土に踏み滑らし、横倒しになると、坂になっている小径を滝《たき》のように流れている水勢が、骨と皮ばかりになっている復一を軽々と流し、崖下の古池の畔《ほとり》まで落して来た。復一はようやくそこの腐葉土《ふようど》のぬかるみで、危《あやう》く踏み止まった。
年来理想の新種を得るのにまだまだ幾多の交媒と工夫を重ねなければならない前途|暗澹《あんたん》たる状態であるのに、今またプールの親金魚をこの水で失くすとすれば、十四年の苦心は水の泡《あわ》になって、元も子も失くしてしまう。復一は精も根も一度に尽き果て、洞窟《どうくつ》のように黒く深まる古池の傍にへたへたと身を崩折らせ、しばらく意識を喪失《そうしつ》していた。
しばらくして復一が意識を恢復《かいふく》して来ると、天地は薔薇色に明け放たれていて、谷窪の万象は生々の気を盆地一ぱいに薫《かお》らしている。輝《かがや》く蒼空をいま漉《す》き出すように頭上の薄膜《はくまく》の雲は見る見る剥《はが》れつつあった。
何という新鮮で濃情な草樹の息づかいであろう。緑も樺《かば》も橙《だいだい》も黄も、その葉の茂みはおのおのその膨らみの中に強い胸を一つずつ蔵していて、溢れる生命に喘いでいるように見える。しどろもどろの叢《くさむら》は雫の露《つゆ》をぶるぶる振り払いつつ張って来た乳房《ちぶさ》
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