きあ》えば悪びれた幇間《ほうかん》になるか、威丈高《いたけだか》な虚勢《きょせい》を張るか、どっちか二つにきまっている。瘠我慢《やせがまん》をしても僻《ひが》みを立てて行くところに自分の本質はあるのだ。要するに普通《ふつう》の行き方では真佐子ははじめから適《かな》わない自分の相手なのだ。たった一つの道は意地悪く拗《す》ねることによって、ひょっとしたら、今でもあの娘はまだ自分に牽かれるかも知れない。復一は変態的に真佐子をいじめつけた幼年時代の哀《かな》しい甘い追憶にばかりだんだん自分をかたよらせて行った。
そのうち復一は東京の中学を卒《お》え、家畜《かちく》魚類の研究に力を注いでいる関西のある湖の岸の水産所へ研究生に入ることになった。いよいよ一週間の後には出発するという九月のある宵《よい》、真佐子は懐中《かいちゅう》電燈《でんとう》を照らしながら崖の道を下りて、復一に父の鼎造から預った旅費と真佐子自身の餞別《せんべつ》を届けに来た。宗十郎夫妻に礼をいわれた後、真佐子は復一にいった。
「どう、お訣《わか》れに、銀座へでも行ってお茶を飲みません?」
真佐子が何気なく帯の上前の合せ目を直しながらそういうと、あれほど頑固《がんこ》をとおすつもりの復一の拗ね方はたちまち性が抜けてしまうのだった。けれども復一は必死になっていった。
「銀座なんてざわついた処《ところ》より僕《ぼく》は榎木《えのき》町の通りぐらいなら行ってもいいんです」
復一の真佐子に対する言葉つかいはもう三四年以前から変っていた。友達としては堅《かた》くるしい、ほんの少し身分の違《ちが》う男女間の言葉|遣《づか》いに復一は不知《しらず》不識《しらず》自分を馴らしていた。
「妙なところを散歩に註文《ちゅうもん》するのね。それではいいわ。榎木町で」
赤坂|山王下《さんのうした》の寛濶《かんかつ》な賑《にぎ》やかさでもなく、六本木|葵《あおい》町間の引締った賑やかさでもなく、この両大通りを斜に縫《ぬ》って、たいして大きい間口の店もないが、小ぢんまりと落付いた賑やかさの夜街の筋が通っていた。店先には商品が充実していて、その上種類の変化も多かった。道路の闇《やみ》を程よく残して初秋らしい店の灯の光が撒《ま》き水の上にきらきらと煌《きら》めいたり流れたりしていた。果《くだ》もの屋の溝板《どぶいた》の上には抛《ほう》り出した砲丸《ほうがん》のように残り西瓜《すいか》が青黒く積まれ、飾窓《かざりまど》の中には出初めの梨《なし》や葡萄《ぶどう》が得意の席を占めている。肥《ふと》った女の子が床几《しょうぎ》で絵本を見ていた。騒《さわ》がしくも寂《さび》しくもない小ぢんまりした道筋であった。
真佐子と復一は円タクに脅《おびや》かされることの少い町の真中を臆《おく》するところもなく悠々《ゆうゆう》と肩を並べて歩いて行った。復一が真佐子とこんなに傍《そば》へ寄り合うのは六七年振りだった。初めのうちはこんなにも大人に育って女性の漿液《しょうえき》の溢《あふ》れるような女になって、ともすれば身体の縒《よじ》り方一つにも復一は性の独立感を翻弄《ほんろう》されそうな怖《おそ》れを感じて皮膚《ひふ》の感覚をかたく胄《よろ》って用心してかからねばならなかった。そのうち復一の内部から融《と》かすものがあって、おやと思ったときはいつか復一は自分から皮膚感覚の囲みを解いていて、真佐子の雰囲気《ふんいき》の圏内《けんない》へ漂《ただよ》い寄るのを楽しむようになっていた。すると店の灯も、町の人通りも香水《こうすい》の湯気を通して見るように媚《なま》めかしく朦朧《もうろう》となって、いよいよ自意識を頼《たよ》りなくして行った。
だが、復一にはまだ何か焦々《いらいら》と抵抗《ていこう》するものが心底に残っていて、それが彼を二三歩真佐子から自分を歩き遅らせた。復一は真佐子と自分を出来るだけ客観的に眺める積りでいた。彼の眼には真佐子のやや、ぬきえもんに着た襟《えり》の框《かまち》になっている部分に愛蘭《アイルランド》麻《あさ》のレースの下重ねが清楚《せいそ》に覗《のぞ》かれ、それからテラコッタ型の完全な円筒《えんとう》形の頸《くび》のぼんの窪へ移る間に、むっくりと搗《つ》き立ての餅《もち》のような和《なご》みを帯びた一堆《いっつい》の肉の美しい小山が見えた。
「この女は肉体上の女性の魅力《みりょく》を剰《あま》すところなく備えてしまった」
ああ、と復一は幽《かすか》な嘆声《たんせい》をもらした。彼は真佐子よりずっと背が高かった。彼は真佐子を執拗《しつよう》に観察する自分が卑《いや》しまれ、そして何か及《およ》ばぬものに対する悲しみをまぎらすために首を脇へ向けて、横町の突当りに影《かげ》を凝《こら》す山王の森に視線を逃
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