ない師匠《ししょう》だった。何しろ始めは生きものをいじるということが妙《みょう》に怖《おそろ》しくって、と宗十郎は正直に白状した。
「復一こそ、この金魚屋の当主なのです。だから金魚屋をやるのが順当なのでしょうが、どういうことになりますか、今の若ものにはまた考えがありましょうから」
宗十郎は淡々《たんたん》として、座敷《ざしき》の隅《すみ》で試験勉強している復一の方を見てそういった。
「いや、金魚はよろしい。ぜひやらせなさい。並《なみ》の金魚はたいしたこともありますまいが、改良してどしどし新種を作れば、いくらでも価格は飛躍《ひやく》します。それに近頃では外国人がだいぶ需要して来ました。わが国では金魚飼育はもう立派な産業ですよ」
実業家という奴は抜《ぬ》け目なくいろいろなことを知ってるものだと、復一は驚ろいて振り返った。鼎造は次いでいった。「それにしても、これからは万事科学を応用しなければ損です。失礼ですが復一さんを高等の学校へ入れるに、もしご不自由でもあったら、学費は私が多少補助してあげましょうか」
唐突《とうとつ》な申出を平気でいう金持の顔を今度は宗十郎がびっくりして見た。すると鼎造はそのけはい[#「けはい」に傍点]を押えていった。
「いや、ざっくばらんに云うと、私の家には雌《めす》の金魚が一ぴきだけでしょう。だから、どうもよその雄《おす》を見ると、目について羨《うらや》ましくて好意が持てるのです」
復一は人間を表現するのに金魚の雌雄《しゆう》に譬《たと》えるとは冗談《じょうだん》の言葉にしても程があるものだとむっとした。しかし、こういう反抗の習慣はやめた方が、真佐子に親しむ途《みち》がつくと考えないでもなかった。真佐子に投げられて上顎の奥に貼りついた桜の花びらの切ないなつかしい思い出で――復一はしきりに舌のさきで上顎の奥を扱いた。
「お子さまにお嬢さまお一人では、ご心配でございますね」
茶を出しながら宗十郎の妻がいうと、鼎造は多少意地張った口調で、
「その代り出来のよい雄をどこからでも選んで婿《むこ》に取れますよ。自分のだったらボンクラでも跡目を動かすわけにはゆかない」
結局、復一は鼎造の申出通り、金魚の飼養法を学ぶため上の専門学校へ行くことになり学資の補助も受けることになった。真佐子は何にも知らない顔をしていた。しかし、復一が気がついてみると、もうこのとき、真佐子の周囲には、鼎造のいわゆるよその雄で鼎造から好意を受けている青年が三人は確《たしか》にいて、金|釦《ボタン》の制服で出入りするのが、復一の眼の邪魔《じゃま》になった。復一の観察するところによると、真佐子は美事《みごと》な一視《いっし》同仁《どうじん》の態度で三人の青年に交際していた。鼎造が元来苦労人で、給費のことなど権利と思わず、青年を単に話相手として取扱《とりあつか》うのと、友田、針谷、横地というその三人の青年は、共通に卑屈な性質が無いところを第一条件として選ばれたとでもいうように、共通な平気さがあって、学費を仰《あお》ぐ恩家のお嬢さんをも、テニスのラケットで無雑作に叩《たた》いたり、真佐子、真佐子と年少の女並に呼び付けていた。一ぴきの雌に対する三びきの雄の候補者であることを自他の意識から完全にカムフラージュしていた。それが真佐子にとって一層、男たちを一視同仁に待遇《たいぐう》するのに都合《つごう》がよかったのかも知れない。
崖邸の若い男女がそういう滑らかで快濶《かいかつ》な交際社会を展開しているのを見るにつけ、復一は自分の性質を顧《かえり》みて、遺憾《いかん》とは重々知りつつ、どうしても逆なコースへ向ってしまうのだった。誰《だれ》があんな自我の無い手合いと一しょになるものか、自分にはあんな中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な交際振りは出来ない。征服《せいふく》か被《ひ》征服かだ。しかし、この頃自分の感じている真佐子の女性美はだんだん超越《ちょうえつ》した盛り上り方をして来て、恋愛《れんあい》とか愛とかいうものの相手としては自分のような何でも対蹠的《たいしょてき》に角突き合わなければ気の済まない性格の青年は、その前へ出ただけで脱力《だつりょく》させられてしまうような女になりかかって来ていると思われた。復一はこの頃から早熟の青年らしく人生問題について、あれやこれや猟奇的《りょうきてき》の思索《しさく》に頭の片端を入れかけた。結局、崖の上へは一歩も登らずに、真佐子がどうなって来るか、自分が最も得意とするところの強情を張って対抗してみようと決心した。到底《とうてい》自分のような光沢《こうたく》も匂《にお》いもない力だけの人間が、崖の上の連中に入ったら不調和な惨敗《ざんぱい》ときまっている。わけて真佐子のような天女型の女性とは等匹《とうひつ》できまい。交際《つ
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