うな珍らしく美麗な金魚の新種をつくり出すこと、それを生涯の事業としてかかる自分を人知れぬ悲壮《ひそう》な幸福を持つ男とし、神秘な運命に掴まれた無名の英雄のように思い、命を賭《か》けてもやり切ろうという覚悟だった。それが結局崖邸の親子に利用されることになるのか――さもあらばあれ、それが到底自分にとって思い切れ無い真佐子の喜びともなれば、その喜びが真佐子と自分を共通に繋《つな》ぐ……。それにしてもあの非現実的な美女が非現実的な美魚に牽《ひ》かれる不思議さ、あわれさ。復一は試験室の窓から飴《あめ》のようにとろりとしている春の湖を眺めながら、子供のとき真佐子に喰わされた桜の花びらが上顎の奥にまだ貼り付いているような記憶を舌で舐《な》め返した。
「真佐子、真佐子」と名を呼ぶと、復一は自分ながらおかしいほどセンチメンタルな涙がこぼれた。
 復一の神経|衰弱《すいじゃく》が嵩《こう》じて、すこし、おかしくなって来たという噂が高まった。事実、しんしんと更《ふ》けた深夜の研究室にただ一人残って標品《プレパラート》を作っている復一の姿は物凄《ものすご》かった。辺りが森閑《しんかん》と暗い研究室の中で復一は自分のテーブルの上にだけ電燈を点《つ》けて次から次へと金魚を縦に割き、輪切にし、切り刻んで取り出した臓器を一面に撒乱《さんらん》させ、じっと拡大鏡で覗いたり、ピンセットでいじり廻したりして深夜に至るも、夜を忘れた一心不乱の態度が、何か夜の猛禽獣《もうきんじゅう》が餌を予想外にたくさん見付け、喰べるのも忘れて、しばらく弄《もてあそ》ぶ恰好《かっこう》に似ていた。切られた金魚の首は電燈の光に明るく透けてルビーのように光る目を見開き、口を思い出したように時々開閉していた。
 都会育ちで、刺戟に応じて智能《ちのう》が多方面に働き易く習性付けられた青年の復一が、専門の中でも専門の、しかも、根気と単調に堪えねばならない金魚の遺伝と生殖《せいしょく》に関してだけを研究することは自分の才能を、小さい焦点へ絞り狭《せば》めるだけでも人一倍骨が折れた。頬《ほお》も眼も窪ませた復一は、力も尽き果てたと思うとき、くったりして窓際へ行き、そこに並べてある硝子鉢《ガラスばち》の一つの覆《おお》いに手をかける。指先は冷血していて氷のようなのに、溜《たま》った興奮がびりびり指を縺《もつら》して慄えている。やっと覆いを
前へ 次へ
全41ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング