江のけはい――案外、早くそれが納《おさま》って、船端で水を掬《すく》う音がした。復一はわざと瞳の焦点を外しながらちょっと女の様子を覗きすぐにまた眼を閉じた。月の光をたよりに女は、静かに泣顔をハンドミラーで繕《つくろ》っていた。熱いものが飛竜《ひりゅう》のように復一の胸を斜に飛び過ぎたが心に真佐子を念《おも》うと、再び美しい朦朧の意識が紅靄《べにもや》のように彼を包んだ。秀江は思い返したように船べりへ手を置いて、今までのとげとげしい調子をねばるような笑いに代えて柔く云った。
「ボートへ入ってもいいの」
「……うん……」
復一に突然こんな感情が湧いた――誰も不如意で悲しいのだ。持ってるようでも何かしら欠けている。欲しいもの全部は誰も持ち得ないのだ。そして誰でも寂しいのだ――復一は誰に対しても自分に対しても憐《あわれ》みに堪《た》えないような気持ちになった。
名月や湖水を渡る七小町
これは芭蕉《ばしょう》の句であったろうか――はっきり判らないがこんなことを云いながら、復一の腕は伸びて、秀江の肩にかかった。秀江は軟体《なんたい》動物のように、復一の好むどんな無理な姿態にも堪えて引寄せられて行った。
復一はそれとない音信を時々真佐子に出してみるのであった。湖水の景色の絵葉書に、この綺麗《きれい》な水で襯衣《シャツ》を洗うとか、島の絵葉書にこの有名な島へ行く渡船に渡し賃が二銭足りなくて宿から借りたとか。
すると三度か四度目に一度ぐらいの割で、真佐子から返信があった。それはいよいよ窈渺《ようびょう》たるものであった。
「この頃はお友達の詩人の藤村《ふじむら》女史に来て貰って、バロック時代の服飾《ふくしょく》の研究を始めた」とか「日本のバロック時代の天才彫刻家左|甚五郎《じんごろう》作の眠《ねむ》り猫《ねこ》を見に日光へ藤村女史と行きました。とても、可愛《かわい》らしい」とか。
いよいよ彼女《かのじょ》は現実を遊離する徴候《ちょうこう》を歴然と示して来た。
復一はそのバロック時代なるものを知らないので、試験所の図書室で百科辞典を調べて見た。それは欧洲《おうしゅう》文芸復興期の人性主義《ヒューマニズム》が自然性からだんだん剥離《はくり》して人間|業《わざ》だけが昇華《しょうか》を遂《と》げ、哀れな人工だけの絢爛《けんらん》が造花のように咲き乱れた十七世紀の時代様式ら
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