べての景色が玩具《がんぐ》染《じ》みて見えた。
 復一は、平沙の鼻の渚《なぎさ》近くにボートを進ませたが、そこは夕方にしては珍らしく風当りが激しくて海のように菱波《ひしなみ》が立ち、はす[#「はす」に傍点]の魚がしきりに飛んだ。風を除《よ》けて、湖の岐入の方へ流れ入ると、出崎の城の天主閣《てんしゅかく》が松林《まつばやし》の蔭から覗き出した。秀江の村の網手の影が眼界に浮《うか》び上って来たのである。結局、いつもの通り、湖の岐入とS川との境の台地下へボートを引戻《ひきもど》し、蘆洲の外の馴染《なじみ》の場所に舶《と》めて、復一は湖の夕暮に孤独《こどく》を楽しもうとした。
 復一はボートの中へ仰向《あおむ》けに臥《ね》そべった。空の肌質《きじ》はいつの間にか夕日の余燼《ほとぼり》を冷《さ》まして磨《みが》いた銅鉄色に冴《さ》えかかっていた。表面に削《けず》り出しのような軽く捲《ま》く紅いろの薄雲が一面に散っていて、空の肌質がすっかり刀色に冴えかえる時分を合図のようにして、それ等の雲はかえって雲母《うんも》色に冴えかえって来た。復一はふと首を擡《もた》げてみると、まん丸の月がO市の上に出ていた。それに対してO市の町の灯の列はどす赤く、その腰を屏風《びょうぶ》のように背後の南へ拡がるじぐざぐの屏嶺《へいれい》は墨色《すみいろ》へ幼稚《ようち》な皺《しわ》を険立たしている。
 対岸の渚の浪《なみ》の音が静まって、ぴちょりぴょんという、水中から水の盛り上る音が復一の耳になつかしく聞えた。湖水のここは、淵《ふち》の水底からどういう加減か清水《しみず》が湧き出し、水が水を水面へ擡げる渦《うず》が休みなく捲き上り八方へ散っている。湖水中での良質の水が汲《く》まれるというのでここを「もくもく」と云い、京洛《けいらく》の茶人はわざわざ自動車で水を汲ませに寄越す。情死するため投身した男女があったが、どうしても浮き上って死ねなかったという。いろいろな特色から有名な場所になっている。
 この周囲の泥沙《でいさ》は柳《やなぎ》の多いところで、復一は金魚に卵を産みつけさせる柳のひげ[#「ひげ」に傍点]根を摂《と》りに来てここを発見した。
「生命感は金魚に、恋のあわれは真佐子に、肉体の馴染みは秀江に。よくもまあ、おれの存在は器用に分裂《ぶんれつ》したものだ」
 もくもくの水の湧き上る渦の音を聞いて復
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