人生に無計算な美が絶え間なく空間へただ徒《いたず》らに燃え費されて行くように感じられた。愛惜《あいせき》の気持ちが復一の胸に沁《し》み渡ると、散りかかって来る花びらをせき留めるような余儀《よぎ》ない焦立《いらだ》ちと労《いたわ》りで真佐子をかたく抱《だ》きしめたい心がむらむらと湧き上るのだったが……。
 復一は吐息《といき》をした。そして
「静かな夜だな」
 というより仕方がなかった。

 復一が研究生として入った水産試験所は関西の大きな湖の岸にあった。Oという県庁所在地の市は夕飯後の適宜《てきぎ》な散歩|距離《きょり》だった。
 試験所前の曲《まげ》ものや折箱《おりばこ》を拵《こしら》える手工業を稼業《かぎょう》とする家の離《はな》れの小|座敷《ざしき》を借りて寝起きをして、昼は試験所に通い、夕飯後は市中へ行って、ビールを飲んだり、映画を見たりする単純な技術家気質の学生生活が始まった。研究生は上級生まで集めて十人ほどでかなり親密だった。淡水魚《たんすいぎょ》の、養殖《ようしょく》とか漁獲《ぎょかく》とか製品保存とかいう、専門中でも狭《せま》い専門に係る研究なので、来ている研究生たちは、大概《たいがい》就職の極《きま》っている水産物関係の官衙《かんが》や会社やまたは協会とかの委託生《いたくせい》で、いわば人生も生活も技術家としてコースが定められた人たちなので、朴々《ぼくぼく》としていずれも胆汁質《たんじゅうしつ》の青年に見えた。地方の人が多かった。それに較《くら》べられるためか、復一は際だった駿敏《しゅんびん》で、目端《めはし》の利く青年に見えた。専修科目が家畜魚類の金魚なのと、そういう都会人的の感覚のよさを間違って取って、同学生たちは復一を芸術家だとか、詩人だとか、天才だとか云って別格にあしらった。復一自身に取っては自分に一ばん欠乏もし、また軽蔑《けいべつ》もしている、そういうタイトルを得たことに、妙なちぐはぐな気持がした。
 担任の主任教授は、復一を調法にして世間的関係の交渉《こうしょう》には多く彼を差向けた。彼は幾つかのこの湖畔《こはん》の水産に関係ある家に試験所の用事で出入りをしているうち、その家々で二三人の年頃の娘とも知合いになった。都会の空気に憧憬《あこが》れる彼女等はスマートな都会青年の代表のように復一に魅着の眼を向けた。それは極めて実感的な刺戟を彼に
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