私はその坂を覺えてゐる。
頂上の左右に二三の大邸宅を控へてゐる。雜木の小丘を截つて附けた坂としてはわたりが長く隨つて茅萱野草に掩はれた一方の崖下は深くて長かつた。西原氏がメロンの落ちた谷といつたのはその崖下だつた。左右の荒地、嶮岨に似ず、坂の表面はきめのこまかい赤土で小石が、いくらか散らばつただけの柔和な傾斜面だつた。
[#ここから2字下げ]
ころがせ、ころがせ、びいる樽とめて、とまらぬものならば赤い夕陽の、だら/\坂をころがせ、ころがせ、びいる樽。
[#ここで字下げ終わり]
西原氏は、嫌味のないさつぱりした調子で、あの坂でつくつた自作の童謠を口ずさみ、しみじみと愉快氣に童男型でありながらまた大人風をも備へた大兵の體を振つた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――この謠をですね、醉つて私は唄ひながら、あの坂を降りて東京市内から自宅の方へ歸つたものですよ。さうですよ。朝か、晝ごろ出れば大がい夕方醉つて私は市内から歸るのでしたよ。
[#ここで字下げ終わり]
その西原氏を狂童女がどこから眺めて送迎してゐたものか、西原氏の市中へ出る途を擁してゐて、或朝、まだ醉つてゐない西原氏に一人の品の宜い初老位な奧樣風の女性が、坂の上の大邸宅の一つから出て來て立ち向つた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――何とも御迷惑なことゝ、重々御察しいたしますが……。
[#ここで字下げ終わり]
と彼女は、幾度も幾度も、考へ拔いた上のことらしく、語調に惡びれた樣子もなく、すらすらかういつて、西原氏に狂童女に一度會つて呉れるよう、ひたすら頼み入るのだつた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――氣の違ったまゝで、たゞ/\あなたをお慕ひ申すのがいぢらしくて、失禮とも何とも申し上げ兼ねますが……。
[#ここで字下げ終わり]
こどもの戀心を汲み取つて述べる母親の口からは、自然とかういつた舊套な抒情詩が滑り出るのだつた。だがこの場合、さういふ口調が却つて舊套を脱して、こどもの氣持ちも母親の氣持ちも、一しよに鮮かに西原氏のこゝろには訴へられたのだ。
てれ[#「てれ」に傍点]てはにかんだ詩人は、肉體的にもむづ痒いものが、太い頸を目がけて、背中から匍ひ上つて來るやうなのを、どうしようもなかつた。脱いだ帽子で頸のまはりを磨りまはしながら、
[#ここから改行天付き、折
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