越年
岡本かの子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)弾《はず》んだ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一時|痺《しび》れた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ずらかろう[#「ずらかろう」に傍点]
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年末のボーナスを受取って加奈江が社から帰ろうとしたときであった。気分の弾《はず》んだ男の社員達がいつもより騒々しくビルディングの四階にある社から駆け降りて行った後、加奈江は同僚の女事務員二人と服を着かえて廊下に出た。すると廊下に男の社員が一人だけ残ってぶらぶらしているのがこの際妙に不審に思えた。しかも加奈江が二、三歩階段に近づいたとき、その社員は加奈江の前に駆けて来て、いきなり彼女の左の頬に平手打ちを食わした。
あっ! 加奈江は仰反《のけぞ》ったまま右へよろめいた。同僚の明子も磯子も余り咄嗟《とっさ》の出来事に眼をむいて、その光景をまざまざ見詰めているに過ぎなかった。瞬間、男は外套《がいとう》の裾《すそ》を女達の前に飜《ひるがえ》して階段を駆け降りて行った。
「堂島さん、一寸《ちょっと》待ちなさい」
明子はその男の名を思い出して上から叫んだ。男の女に対する乱暴にも程があるという憤《いきどお》りと、こんな事件を何とかしなければならないというあせった気持から、明子と磯子はちらっと加奈江の方の様子を不安そうに窺《うかが》って加奈江が倒れもせずに打たれた頬をおさえて固くなっているのを見届けてから、急いで堂島の後を追って階段を駆け降りた。
しかし堂島は既に遥か下の一階の手すりのところを滑るように降りて行くのを見ては彼女らは追つけそうもないので「無茶だ、無茶だ」と興奮して罵《ののし》りながら、加奈江のところへ戻って来た。
「行ってしまったんですか。いいわ、明日来たら課長さんにも立会って貰《もら》って、……それこそ許しはしないから」
加奈江は心もち赤く腫《は》れ上った左の頬を涙で光らしながら恨《うら》めしそうに唇をぴくぴく痙攣《けいれん》させて呟《つぶや》いた。
「それがいい、あんた何も堂島さんにこんな目にあうわけないでしょう」
磯子が、そう訊《き》いたとき、磯子自身ですら悪いことを訊いたものだと思うほど加奈江も明子も不快なお互いを探り合うような顔付きで眼を光らした。間もなく加奈江は磯子を睨《にら》んで
「無論ありませんわ。ただ先週、課長さんが男の社員とあまり要らぬ口を利《き》くなっておっしゃったでしょう。だからあの人の言葉に返事しなかっただけよ」と言った。
「あら、そう。なら、うんとやっつけてやりなさいよ。私も応援に立つわ」
磯子は自分のまずい言い方を今後の態度で補うとでもいうように力んでみせた。
「課長がいま社に残っているといいんだがなあ、昼過ぎに帰っちまったわねえ」
明子は現在加奈江の腫れた左の頬を一目、課長に見せて置きたかった。
「じゃ、明日のことにして、今日は帰りましょう。私少し廻り道だけれど加奈江さんの方の電車で一緒に行きますわ」
明子がそういってくれるので、加奈江は青山に家のある明子に麻布《あざぶ》の方へ廻って貰った。しかし撲《なぐ》られた左半面は一時|痺《しび》れたようになっていたが、電車に乗ると偏頭痛にかわり、その方の眼から頻《しき》りに涙がこぼれるので加奈江は顔も上げられず、明子とも口が利けなかった。
翌朝、加奈江が朝飯を食べていると明子が立寄って呉れた。加奈江の顔を一寸調べてから「まあよかったわね、傷にもならなくて」と慰めた。だが、加奈江には不満だった。
「でもね、昨夜は口惜しいのと頭痛でよく眠られなかったのよ」
二人は電車に乗った。加奈江は今日、課長室で堂島を向うに廻して言い争う自分を想像すると、いつしか身体が顫《ふる》えそうになるのでそれをまぎらすために窓外に顔を向けてばかりいた。
磯子も社で加奈江の来るのを待ち受けていた。彼女は自分達の職場である整理室から男の社員達のいる大事務所の方へ堂島の出勤を度々《たびたび》見に行って呉れた。
「もう十時にもなるのに堂島は現われないのよ」
磯子は焦《じ》れったそうに口を尖《とが》らして加奈江に言った。明子は、それを聞くと
「いま課長、来ているから、兎《と》も角《かく》、話して置いたらどう。何処《どこ》かへ出かけちまったら困るからね」
と注意した。加奈江は出来るだけ気を落ちつけて二人の報告や注意を参考にして進退を考えていたが、思い切って課長室へ入って行った。そこで意外なことを課長から聞かされた。それは堂島が昨夜のうちに速達で退社届を送って寄こしたということであった。卓上にまだあるその届書も見せて呉れた。
「そんな男とは思わなかったがなあ。実に卑劣極まるねえ。社の方もボーナスを貰ってやめたのだしねえ。それに住所目下移転中と書いてあるだろう。何から何までずらかろう[#「ずらかろう」に傍点]という態度だねえ。君も撲られっ放しでは気が済まないだろうから、一つ懲《こら》しめのために訴えてやるか。誰かに聞けば直ぐ移転先きは分るだろう」
課長も驚いて膝を乗り出した。そしてもう既に地腫も引いて白磁色に艶々《つやつや》した加奈江の左の頬をじっとみて
「痕《あと》は残っておらんけれど」と言った。
加奈江は「一応考えてみましてから」と一旦、整理室へ引退った。待ち受けていた明子と磯子に堂島の社を辞《や》めたことを話すと
「いまいましいねえ、どうしましょう」
磯子は床を蹴って男のように拳《こぶし》で傍の卓の上を叩《たた》いた。
「ふーん、計画的だったんだね。何か私たちや社に対して変な恨みでも持っていて、それをあんたに向って晴らしたのかも知れませんねえ」
明子も顰《しか》めた顔を加奈江の方に突き出して意見を述べた。
二人の憤慨とは反対に加奈江はへたへたと自分の椅子に腰かけて息をついた。今となっては容易《たやす》く仕返しの出来難い口惜しさが、固い鉄の棒のようになって胸に突っ張った苦しさだった。
加奈江は昼飯の時間が来ても、明子に注いで貰ったお茶を飲んだだけで、持参した弁当も食べなかった。
「どうするつもり」と明子が心配して訊《たず》ねると
「堂島のいた机の辺りの人に様子を訊《き》いて来る」と言って加奈江はしおしおと立って行った。
拓殖会社の大事務室には卓が一見縦横乱雑に並び、帳面立ての上にまで帰航した各船舶から寄せられた多数の複雑な報告書が堆《うずたか》く載っている。四隅に置いたストーヴの暖かさで三十数名の男の社員達は一様に上衣《うわぎ》を脱いで、シャツの袖口をまくり上げ、年内の書類及び帳簿調べに忙がしかった。加奈江はその卓の間をすり抜けて堂島が嘗《か》つて向っていた卓の前へ行った。その卓の右隣りが山岸という堂島とよく連れ立って帰って行く青年だった。
加奈江は早速、彼に訊いてみた。
「堂島さんが社を辞めたってね」
「ああそうか、道理で今日来なかったんだな。前々から辞める辞めると言ってたよ。どこか品川の方にいい電気会社の口があるってね」
すると他の社員が聞きつけて口をはさんだ。
「ええ、本当かい。うまいことをしたなあ。あいつは頭がよくって、何でもはっきり割り切ろうとしていたからなあ」
「そうだ、ここのように純粋の軍需品会社でもなく、平和になればまた早速に不況になる惧《おそ》れのあるような会社は見込みがないって言ってたよ」
山岸は辺りへ聞えよがしに言った。彼も不満を持ってるらしかった。
「あの人は今度、どこへ引っ越したの」
加奈江はそれとなく堂島の住所を訊き出しにかかった。だが山岸は一寸|解《げ》せないという顔付をして加奈江の顔を眺めたが、直ぐにやにや笑い出して
「おや、堂島の住所が知りたいのかい。こりゃ一杯、おごりものだぞ」
「いえ、そんなことじゃないのよ。あんたあの人と親友じゃないの」
加奈江は二人の間柄を先《ま》ず知りたかった。
「親友じゃないが、銀座へ一緒に飲みに行ってね、夜遅くまで騒いで歩いたことは以前あったよ」
「それなら新しい移転先き知ってるでしょう」
「移転先って。いよいよあやしいな、一体どうしたって言うんだい」
加奈江は昨日の被害を打ち明けなくては、自分の意図が素直に分って貰えないのを知った。
「山岸さんは堂島さんがこの社を辞めた後もあの人と親しくするつもり。それを聞いた上でないと言えないのよ」
「いやに念を押すね。ただ飲んで廻ったというだけの間柄さ。社を辞めたら一緒に出かけることも出来ないじゃないか。もっとも銀座で逢えば口ぐらいは利くだろうがね」
「それじゃ話すけれど、実は昨日私たちの帰りに堂島が廊下に待ち受けていて私の顔を撲ったのよ。私、眼が眩《くら》むほど撲られたんです」
加奈江はもう堂島さんと言わなかった。そして自分の右手で顔を撲る身振りをしながら眼をつむったが、開いたときは両眼に涙を浮べていた。
「へえー、あいつがかい」
山岸もその周《まわ》りの社員たちも椅子から立上って加奈江を取巻いた。加奈江は更に、撲られる理由が単に口を利かなかったということだけだと説明したとき、不断おとなしい彼女を信じて社員たちはいきり出した。
「この社をやめて他の会社の社員になりながら、行きがけの駄賃に女を撲って行くなんてわが社の威信を踏み付けにした遣《や》り方だねえ。山岸君の前だけれど、このままじゃ済まされないなあ」
これは社員一同の声であった。山岸はあわてて
「冗談言うな。俺だって承知しないよ。あいつはよく銀座へ出るから、見つけたら俺が代って撲り倒してやる」
と拳をみんなの眼の前で振ってみせた。しかし社員たちはそれを遮《さえぎ》った。
「そんなことはまだるいや。堂島の家へ押しかけてやろうじゃないか」
「だから私、あの人の移転先が知りたいのよ。課長さんが見せて呉れた退社届に目下移転中としてあるからね」
と加奈江は山岸に相談しかけた。
「そうか。品川の方の社へ変ると同時に、あの方面へ引越すとは言ってたんだがね、場所は何も知らないんだよ。だが大丈夫、十時過ぎになれば何処の酒場でもカフェでもお客を追い出すだろう、その時分に銀座の……そうだ西側の裏通りを二、三日探して歩けば屹度《きっと》あいつは掴まえられるよ」
山岸の保証するような口振りに加奈江は
「そうお、では私、ちょいちょい銀座へ行ってみますわ。あんた告げ口なんかしては駄目よ」
「おい、そんなに僕を侮辱《ぶじょく》しないで呉れよ。君がその気なら憚《はばか》りながら一臂《いっぴ》の力を貸す決心でいるんだからね」
山岸の提言に他の社員たちも、佐藤加奈江を仇討《あだう》ちに出る壮美な女剣客のようにはやし立てた。
「うん俺達も、銀ブラするときは気を付けよう。佐藤さんしっかりやれえ」
師走《しわす》の風が銀座通りを行き交う人々の足もとから路面の薄埃《うすぼこり》を吹き上げて来て、思わず、あっ! と眼や鼻をおおわせる夜であった。
加奈江は首にまいたスカーフを外套の中から掴み出して、絶えず眼鼻を塞《ふさ》いで埃を防いだが、その隙に堂島とすれ違ってしまえば、それっきりだという惧《おそ》れで直ぐにスカーフをはずして前後左右を急いで観察する。今夜も明子に来て貰って銀座を新橋の方から表通りを歩いて裏通りへと廻って行った。
「十日も通うと少し飽き飽きして来るのねえ」
加奈江がつくづく感じたことを溜息と一緒に打ち明けたので、明子も自分からは差控えていたことを話した。
「私このごろ眼がまわるのよ。始終|雑沓《ざっとう》する人の顔を一々|覗《のぞ》いて歩くでしょう。しまいには頭がぼーっとしてしまって、家へ帰って寝るとき天井が傾いて見えたりして吐気《はきけ》がするときもある」
「済みませんわね」
「いえ、そのうちに慣れると思ってる」
加奈江はまた暫《しば》らく黙ってすれ違う人を注意して歩いていたが
「私、撲られた当座、随分口惜しかったけれど、今では段々薄れて来て、毎夜のように無駄に身体を疲らして銀座を歩くことなんか何だ
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