か莫迦《ばか》らしくなって来たの。殊に事変下でね……。それで往く人をして往かしめよって気持ちで、すれ違う人を見ないようにするのよ。するとその人が堂島じゃなかったかという気がかりになって振り返らないではいられないのよ。何という因業《いんごう》な事でしょう」
「あら、あんたがそんなジレンマに陥っては駄目ね」
「でも頬一つ叩いたぐらい大したことでないかも知れないし、こんなことの復讐なんか女にふさわしくないような気がして」
「まあ、それあんたの本心」
「いいえ、そうも考えたり、いろいろよ。社ではまだかまだかと訊くしね」
「それじゃ私が一番お莫迦さんになるわけじゃないの」
明子は顔をくしゃくしゃにして加奈江に言いかけたが、堂島に似た青年が一人明子の傍をすれ違ったので周章《あわ》ててその方に顔を振り向けると、青年は立止まって
「何ていう顔をするんですか」と冷笑したので明子はすっかり赤く照れて顔を伏せてしまった。青年はうるさくついて来た。加奈江と明子はもう堂島探しどころではなかった。二人はずんずん南へ歩いて銀座七丁目の横丁まで来た。その時駐車場の後端の方に在った一台のタクシーが動き出した。その中の乗客の横顔が二人の眼をひかないではいなかった。どうも堂島らしかった。二人は泳ぐように手を前へ出してその車の後を追ったが、バックグラスに透けて見えたのは僅かに乗客のソフト帽だけだった。
それから二人は再び堂島探しに望みをつないで暮れの銀座の夜を縫《ぬ》って歩いた。事変下の緊縮した歳暮はそれだけに成るべく無駄を省いて、より効果的にしようとする人々の切羽《せっぱ》詰まったような気分が街に籠《こも》って、銀ブラする人も、裏街を飲んで歩く青年たちにも、こつん[#「こつん」に傍点]とした感じが加わった。それらの人を分けて堂島を探す加奈江と明子は反撥《はんぱつ》のようなものを心身に受けて余計に疲れを感じた。
「歳の瀬の忙しいとき夜ぐらいは家にいて手伝って呉れてもいいのに」
加奈江の母親も明子の母親も愚痴《ぐち》を滾《こぼ》した。
加奈江も明子も、まだあの事件を母親に打ちあけてないことを今更、気づいた。しかしその復讐のために堂島を探して銀座に出るなどと話したら、直《ただち》に足止めを食うに決まっている――加奈江も明子も口に出さなかった。その代り「年内と言っても後四日、その間だけ我慢して家にいましょう」二人は致し方のないことだと諦めて新年を迎える家の準備にいそしんだ。来るべき新年は堂島を見つけて出来るだけの仕返しをしてやる――そういう覚悟が別に加わって近ごろになく気持ちが張り続けていた
いよいよ正月になって加奈江は明子の来訪を待っていた。三日の晩になっても明子は来なかった。加奈江は自分の事件だから本当は自分の方から誘いに出向くべきであったと始めて気づいて独《ひと》りで苦笑した。今まで加奈江は明子と一緒に銀座の人ごみの中で堂島を掴まえるのには和服では足手まといだというので、いつも出勤時の灰色の洋服の上に紺の外套をお揃いで着て出たものだったが、流石《さすが》に新年でもあり、まだ二三回しか訪れたことのない明子の家へ行くのだから、加奈江は入念にお化粧して、女学校卒業以来二年間、余り手も通さなかった裾模様の着物を着て金模様のある帯を胸高に締めた。着なれない和服の盛装と、一旦途切れて気がゆるんだ後の冒険の期待とに妙に興奮して息苦しかった。羅紗《らしゃ》地のコートを着ると麻布の家を出た。外は一月にしては珍らしくほの暖かい晩であった。
青山の明子の家に着くと、明子も急いで和服の盛装に着替えて銀座行きのバスに乗った。
「わたし、正月早々からあんたを急《せ》き立てるのはどうかと思って差控えてたのよ。それに松の内は銀座は早仕舞いで酒飲みなんかあまり出掛けないと思ったもんだから」
明子は言い訳をした。
「わたしもそうよ。正月早々からあんたをこんなことに引張り出すなんか、いけないと思ってたの。でもね、正月だし、たまにはそんな気持ちばかりでなく銀座を散歩したいと思って、それで裾模様で来たわけさ。今日はゆったりした気持ちで歩いて、スエヒロかオリンピックで厚いビフテキでも食べない」
加奈江は家を出たときとは幾分心構えが変っていた。
「まあまあそれもいいねえ。裾模様にビフテキは少しあわないけれど」
「ほほほほ」
二人は晴やかに笑った。
銀座通りは既に店を閉めているところもあった。人通りも割合いに少なくて歩きよかった。それに夜店が出ていないので、向う側の行人まで見通せた。加奈江たちは先ず尾張町から歩き出したが、瞬《またた》く間に銀座七丁目の橋のところまで来てしまった。拍子抜けのした気持ちだった。
「どうしましょう。向う側へ渡って京橋の方へ行ってオリンピックへ入りましょうか、それともこの西側の裏通りを、別に堂島なんか探すわけじゃないけれど、さっさと歩いてスエヒロの方へ行きますか」
加奈江は明子と相談した。
「そうね、何だか癖がついて西側の裏通りを歩いた方が、自然のような気がするんじゃない」
明子が言い終らぬうちに、二人はもう西側に折れて進んでいた。
「そら、あそこよ。暮に堂島らしい男がタクシーに乗ったところは」
明子が思い出して指さした。二人は今までの澄ました顔を忽《たちま》ちに厳くした。それから縦の裏通りを尾張町の方に向って引返し始めたが、いつの間にか二人の眼は油断なく左右に注がれ、足の踏まえ方にも力が入っていた。
資生堂の横丁と交叉する辻角に来たとき五人の酔った一群が肩を一列に組んで近くのカフェから出て来た。そしてぐるりと半回転するようにして加奈江たちの前をゆれて肩をこすり合いながら歩いて行く。
「ちょいと! 堂島じゃない、あの右から二番目」
明子がかすれた声で加奈江の腕をつかんで注意したとき、加奈江は既に獲物に迫る意気込みで、明子をそのまま引きずって、男たちの後を追いかけた。――どうにかこの一列の肩がほぐれて、堂島一人になればよいが――と加奈江はあせりにあせった。それに堂島が自分達を見つけて知っているかどうかも知りたかった。そう思って堂島の後姿を見ると特に目立って額を俯向《うつむ》けているのも怪しかった。二人は半丁もじりじりして後をつけた。そのとき不意に堂島は後を振り返った。
「堂島さん! ちょっと話があります。待って下さい」
加奈江はすかさず堂島の外套の背を握りしめて後へ引いた。明子もその上から更に外套を握って足を踏張った。堂島は周章《あわ》てて顔を元に戻したが、女二人の渾身《こんしん》の力で喰い止められてそれのまま遁《のが》れることは出来なかった。五人の一列は堂島を底にしてV字型に折れた。
「よー、こりゃ素敵、堂島君は大変な女殺しだね」
同僚らしいあとの四人は肩組も解《ほど》いてしまって、呆《あき》れて物珍らしい顔つきで加奈江たちを取巻いた。
「いや、何でもないよ。一寸失敬する」
そういって堂島は加奈江たちに外套の背を掴まれたまま、連れを離れて西の横丁へ曲って行った。小さな印刷所らしい構えの横の、人通りのないところまで来ると堂島は立止まった。離して逃げられでもしたらと用心して確《し》っかり握りしめてついて来た加奈江は、必死に手に力をこめるほど往時《むかし》の恨みが衝《つ》き上げて来て、今はすさまじい[#「すさまじい」に傍点]気持ちになっていた。
「なぜ、私を撲《なぐ》ったんですか。一寸口を利かなかったぐらいで撲る法がありますか。それも社を辞める時をよって撲るなんて卑怯《ひきょう》じゃありませんか」
加奈江は涙が流れて堂島の顔も見えないほどだった。張りつめていた復讐心が既に融け始めて、あれ以来の自分の惨めな毎日が涙の中に浮び上った。
「本当よ、私たちそんな無法な目にあって、そのまま泣き寝入りなんか出来ないわ。課長も訴えてやれって言ってた。山岸さんなんかも許さないって言ってた。さあ、どうするんです」
堂島は不思議と神妙に立っているきりだった。明子は加奈江の肩を頻《しき》りに押して、叩き返せと急きたてた。しかし女学校在学中でも友達と口争いはしたけれども、手を出すようなことの一度だってなかった加奈江には、いよいよとなって勢いよく手を上げて男の顔を撲るなぞということはなかなか出来ない仕業《しわざ》だった。
「あんまりじゃありませんか、あんまりじゃありませんか」
そういう鬱憤の言葉を繰返し繰返し言い募《つの》ることによって、加奈江は激情を弾ませて行って
「あなたが撲ったから、私も撲り返してあげる。そうしなければ私、気が済まないのよ」
加奈江は、やっと男の頬を叩いた。その叩いたことで男の顔がどんなにゆがんだか鼻血が出はしなかったかと早や心配になり出す彼女だった。叩いた自分の掌に男の脂汗が淡くくっついたのを敏感に感じながら、加奈江は一歩|後退《しさ》った。
「もっと、うんと撲りなさいよ。利息ってものがあるわけよ」
明子が傍から加奈江をけしかけたけれど、加奈江は二度と叩く勇気がなかった。
「おいおい、こんな隅っこへ連れ込んでるのか」
さっきの四人連れが後から様子を覗きにやって来た。加奈江は独りでさっさと数寄屋橋の方へ駆けるように離れて行った。明子が後から追いついて
「もっとやっつけてやればよかったのに」
と、自分の毎日共に苦労した分までも撲って貰いたかった不満を交ぜて残念がった。
「でも、私、お釣銭は取らないつもりよ。後くされが残るといけないから。あれで私気が晴々した。今こそあなたの協力に本当に感謝しますわ」
改まった口調で加奈江が頭を下げてみせたので明子も段々気がほぐれて行って「お目出とう」と言った。その言葉で加奈江は
「そうだった、ビフテキを食べるんだったっけね。祝盃を挙げましょうよ。今日は私のおごり[#「おごり」に傍点]よ」
二人はスエヒロに向った。
六日から社が始まった。明子から磯子へ、磯子から男の社員達に、加奈江の復讐成就が言い伝えられると、社員たちはまだ正月の興奮の残りを沸き立たして、痛快々々と叫びながら整理室の方へ押し寄せて来た。
「おいおい、みんなどうしたんだい」
一足|後《おく》れて出勤した課長は、この光景に不機嫌な顔をして叱ったが、内情を聞くに及んで愉快そうに笑いながら、社員を押し分けて自分が加奈江の卓に近寄り「よく貫徹したね、仇討本懐《あだうちほんかい》じゃ」と祝った。
加奈江は一同に盛んに賞讃されたけれど、堂島を叩き返したあの瞬間だけの強《し》いて自分を弾ませたときの晴々した気分はもうとっくに消え失せてしまって、今では却ってみんなからやいやい言われるのがかえって自分が女らしくない奴と罵《ののし》られるように嫌だった。
社が退《ひ》けて家に帰ると、ぼんやりして夜を過ごした。銀座へ出かける目標《めあて》も気乗りもなかった。勿論《もちろん》、明子はもう誘いに来なかった。戸外は相変らず不思議に暖かくて雪の代りに雨がしょぼしょぼと降り続いた。加奈江は茶の間の隅に坐って前の坪庭の山茶花《さざんか》の樹に雨が降りそそぐのをすかし見ながら、むかしの仇討ちをした人々の後半生というものはどんなものだろうなぞと考えたりした。そして自分の詰らぬ仕返しなんかと較べたりする自分を莫迦《ばか》になったのじゃないかとさえ思うこともあった。
一月十日、加奈江宛の手紙が社へ来ていた。加奈江が出勤すると給仕が持って来た。手紙の表には「ある男より」と書いてあるだけで加奈江が不審に思って開いてみると意外にも堂島からであった。
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この手紙は今までの事柄の返事のつもりで書きます。僕は自分で言うのもおかしいけれど、はっきりしていると思う。現在、あの拓殖会社が煮え切らぬ存在で、今度の社が軍需に専念である点が僕の去就を決した。しかし私に割り切れないものがあの社を去るに当って一つあった。それは貴女に対する私の気持でした。社を辞めるとなれば殆《ほとん》ど貴女には逢えなくなる。その前に僕の気持を打ち明けて、どうか同情して貰いたいとあせっ
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