履《は》くのももどかしげに足踏みの稽古から駈足のスタートにかかった。爪先立って身をかがめると、冷たいコンクリートの上に手を触れた。オン・ユアー・マーク、ゲットセッ、道子は弾条《ばね》仕掛のように飛び出した。昨日の如く青白い月光に照らし出された堤防の上を、遥かに下を多摩川が銀色に光って淙々《そうそう》と音を立てて流れている。
次第に脚の疲れを覚えて速力を緩めたとき、道子は月の光りのためか一種悲壮な気分に衝たれた――自分はいま溌剌と生きてはいるが、違った世界に生きているという感じがした。人類とは離れた、淋しいがしかも厳粛な世界に生きているという感じだった。
道子は着物を着て小走りに表通りのお湯屋へ来た。湯につかって汗を流すとき、初めてまたもとの人間界に立ち戻った気がした。道子は自分独特の生き方を発見した興奮にわくわくして肌を強くこすった。
家に帰って茶の間に行くと、母親が不審そうな顔をして
「お湯から何処へまわったの」と訊いた。道子は
「お湯にゆっくり入ってたの。肩の凝りをほごすために」
傍で新聞を読んでいた兄の陸郎はこれを聞いて「おばあさんのようなことをいう」と言って笑った。道子は黙って中の間へ去った。
道子はその翌晩から出来るだけ素早くランニングを済まし、お湯屋に駆けつけて汗もざっと流しただけで帰ることにした。だが母親は娘の長湯を気にしていた。ある晩、道子がお湯に出かけた直後
「陸郎さん、お前、直ぐ道子の後をつけてみて呉れない。それから出来たら待ってて帰るところもね」
と母親は頼んだ。陸郎は妹の後をつけるということが親し過ぎるだけに妙に照れくさかった。「こんな寒い晩にかい」彼は別な言葉で言い現しながら、母親のせき立てるのもかまわず、ゆっくりマントを着て帽子をかぶって出て行った。陸郎はなかなか帰って来なかった。母親はじりじりして待っていた。そのうちに道子が帰って来てしまった。
「また例の通り長湯ですね。そんなに叮嚀《ていねい》に洗うなら一日置きだってもいいでしょう」
「でもお湯に行くと足がほてって、よく眠れますもの」
兎《と》も角《かく》、眠れることは事実だったので、道子は真剣になって言えた。母親は
「明日は日曜でお父様も家においでですから、昼間私と一緒に行きなさい」
と言った。道子は何て親というものはうるさいものだろうと弱って
「なぜそう私の長湯
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