ながら堤防の上を歩き出した。途中、振り返っていると住宅街の窓々には小さく電燈がともって、人の影も定かではなかった。ましてその向うの表通りはただ一列の明りの線となって、川下の橋に連なっている。
 誰も見る人がない…………よし…………思い切り手足を動かしてやろう…………道子は心の中で呟いた。膝を高く折り曲げて足踏みをしながら両腕を前後に大きく振った。それから下駄を脱いで駈け出してみた。女学校在学中ランニングの選手だった当時の意気込みが全身に湧き上って来た。道子は着物の裾を端折《はしょ》って堤防の上を駆けた。髪はほどけて肩に振りかかった。ともすれば堤防の上から足を踏み外《はず》しはしないかと思うほどまっしぐらに駆けた。もとの下駄を脱いだところへ駈け戻って来ると、さすがに身体全体に汗が流れ息が切れた。胸の中では心臓が激しく衝《う》ち続けた。その心臓の鼓動と一緒に全身の筋肉がぴくぴくとふるえた。――ほんとうに溌剌《はつらつ》と活きている感じがする。女学校にいた頃はこれほど感じなかったのに。毎日窮屈な仕事に圧えつけられて暮していると、こんな駈足ぐらいでもこうまで活きている感じが珍らしく感じられるものか。いっそ毎日やったら――
 道子は髪を束《たば》ねながら急ぎ足で家に帰って来た。彼女はこの計画を家の者に話さなかった。両親はきっと差止めるように思われたし、兄弟は親し過ぎて揶揄《からか》うぐらいのものであろうから。いやそれよりも彼女は月明の中に疾駆《しっく》する興奮した気持ちを自分独りで内密に味わいたかったから。
 翌日道子はアンダーシャツにパンツを穿《は》き、その上に着物を着て隠し、汚れ足袋《たび》も新聞紙にくるんで家を出ようとした。
「どこへ行くんです、この忙がしいのに。それに夕飯時じゃありませんか」
 母親の声は鋭かった。道子は腰を折られて引返した。夕食を兄弟と一緒に済ました後でも、道子は昨晩の駈足の快感が忘れられなかった。外出する口実はないかと頻《しき》りに考えていた。
「ちょっと銭湯に行って来ます」
 道子の思いつきは至極当然のことのように家の者に聞き流された。道子は急いで石鹸と手拭と湯銭を持って表へ出た。彼女は着物の裾を蹴って一散に堤防へ駈けて行った。冷たい風が耳に痛かった。堤防の上で、さっと着物を脱ぐと手拭でうしろ鉢巻をした。凜々《りり》しい女流選手の姿だった。足袋を
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