してあげますから、焦つてはいけませんよ。毒ですよ」
桂子は何度も云つた。
すると小布施は、
「いや、そんなことぢやない。人間といふものは、何等かの方法で始終自分の存在を社会に確めて居たいものだ」
彼は抽象派《アブストレート》の絵を描いてゐたのを途中から止めて、東洋芸術省顧の風潮に従つて、洋画の道具を片付けて墨絵に凝り出した。程君房とか方干魯とかいふ桂子の耳には縁遠い支那の古墨の作銘の名を、桂子は先頃から屡々小布施の口から聴いたものだが、それを自居の雅名にして、標札にまで書いて出さねばならない気持にまでなつたのか――小布施の時流憧憬は病の進むに従つて、一々、即物化さねば[#「さねば」はママ]心が安まらない風に見え出した。
桂子が家へ入つて行くと、小布施は階下の十二畳に桃山風の屏風を引き廻らして、中で床に臥つてゐた。枕元には琺瑯質の鍋だの西洋皿だのが狼藉としてゐて、その間に墨の桐箱と墨の塗沫された画仙紙の上に水筆が転がつてゐた。
「まあ、どうしたの、この有様は。ねえやは?」
小布施は先程から桂子の入つて来るのを足音で知つてゐたのに、わざと絵葉書のアルバムに眼をむけ続けてゐたが、かういはれると、眩しさうに眼を瞬いて、はじめて桂子を見上げた。疳癖があつて、蛾のやうな眉が高い額に迫つてゐる下に、柔和な細い眼がいくらか血[#「血」に「ママ」の注記]膜炎にかゝつて、怯えを見せてゐた。元来、青白い顔色が急に浅黒くなつてゐる。
「しげ(女中の名)はきのふ暇をとつて行つたよ。今どき独身者の病人の家に、給金だけで永くゐる娘はないよ――遺産つきで女房の契約でもしてやらなけりや」
ちよつと皮肉にいつたが、すぐ素直な声になつて、
「そんなことはどうでもいゝ。僕はこの二三日、女中がゐないんで、湯を湧かしたりごみ/\した用事で疲れて、本読んだり画をかくのが面倒なんで、寝ころんでひとりでに君のことを研究してゐたのだがね。君はやつぱり女であつて、女といふものには持つて生れた貞操といふものがあつて、それが結局、根本で万事を解決するんぢやないかと思つたよ。君どう思ふ」
小布施はその証拠のやうにペラ/\とアルバムの頁を繰つた。そして、曾て見たことのない懐しい顔つきをした。今度は桂子が眩しい眼つきをした。
「何をつまらないことをいつてるんです。あたしのことなぞ今の問題ぢやないぢやありませんか。そ
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