船は乗り出でつ
魂《たま》惚《ほ》るる夜や
…………
…………
親しき息は海に通い
ささやきは胸に通い
…………
浪枕
[#ここで字下げ終わり]
 社長は私が話した海の上の男と、娘との間の複雑した事情は都合よく忘れて仕舞い、二人の間の若い情緒的なものばかりを引抽《ひきぬ》いて、或は空想して、それに潤色し、自分の老いの気分に固着するのを忘れ、現在の殻から一時でも逃れて瑞々《みずみず》しい昔の青春に戻ろうと努めているらしいその願いが如何にも本能的で切実なものであるのに私の心は動された。朗吟も旧式だが誇張的のまま素朴で嫌味はなかった。
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親しき息は海に通い
ささやきは胸に通い――――
[#ここで字下げ終わり]
 壁虎《やもり》が鳴く、夜鳥が啼く。私にも何となく甘苦い哀愁が抽《ひ》き出されて、ふとそれがいつか知らぬ間に海の上を渡っている若い店員にふらふらと寄って行きそうなのに気がつくと、
「なにを馬鹿らしい。人の男のことなぞ」
 と嘲《あざけ》って呆《あき》れるのであるが、なおその想《おも》いは果実の切口から滲み出す漿液《しょうえき》のように、激しくなくとも、直《す》ぐに
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