は浅草なぞは今の佃島《つくだじま》のように三角洲《デルタ》だった。
 こういう智識もその若い学者から学ぶところが多かったと、娘は真向から恋愛の叙情を語り兼ねて先《ま》ずこういう話から初めたのであった。
 娘は目白の学校への往復に、その川べりのどこかの男の仕事場で度々|出遇《であ》い、始めはただ好感を寄せ合う目礼から始まって、だんだんその男と口を利き出すようになった。娘は、その男から先ず彼女に縁のある土地と卑近な興味の智識によって、東京生れの娘が今まで気付かずにいたものの、その実はいかに東京の土と水に染《し》みているかを学問的に解明された。
「明日は、大曲《おおまがり》の花屋の前の辺にいます。いらっしゃい」
 その若い学者は科学の中でも、過去へ過去へと現代から離れて行く歴史性に、現実的の精力を取籠《とりこ》められて行く人にありがちな、何となく世間に対しては臆病《おくびょう》であり乍《なが》ら、自己の好みに対しては一克《いっこく》な癇癖《かんぺき》のようなものを持っていた。それは純粋な坊ちゃん育ちらしい感じも与えた。
「さあ、明日からはいよいよお茶の水の切り堀りに取りかかりましょう。学校へ
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