にこういうことを云ったのも想い出された。
 私の肉体は盛り出した暑さに茹《ゆだ》るにつれ、心はひたすら、あのうねる樹幹の鬱蒼《うっそう》の下に粗い歯朶《しだ》の清涼な葉が針立っている幻影に浸り入っていた。
 そのとき娘が「あらっ!」と云って、椀を下に置いた。そして、「まあ、木下さんが」と云って眼を瞠《みは》って膝《ひざ》を立てた。
 小座敷から斜に距《へだ》てて、木柵の内側の床を四角に切り抜いて、そこにも小さな生洲がある。遊客の慰みに釣りをすることも出来るようになっている。
 いま、その釣堀から離れて、家屋の方へ近寄って来る、釣竿を手にした若い逞《たく》ましい男が、娘の瞳《ひとみ》の対象になっている。白いノーネクタイのシャツを着て、パナマ帽を冠ったその男も気がついたらしく、そのがっしりした顔にやや苦み走った微笑を泛《うか》べながら、寛《ゆ》るやかに足を運んで来た。男は座敷の椽《えん》で靴を脱いだ。
「これはこれは、船が早く着いたのかい」
 社長もびっくりして少し乗出して云った。
「けさ方早く着いちゃってね。早速、ホテルと君の事務所へ電話をかけてみたが、出ているというので、退屈凌《たいくつしの》ぎにここへ昼寝する積りで来てたんだが……」ひょっとするとここへ廻《まわ》るかも知れないとも思った。なにしろ新嘉坡へ来る内地の客の見物場所はきまっているからと云って男は朗に笑った。
 私は男がこの座敷へ近寄って来る僅《わず》か分秒の間に、男の方はちらりと一目見ただけで、娘の態度に眼が離せなかった。
 彼女は男が、娘や私たちを認めて、歩を運び出した刹那《せつな》に、「あたし――」といって、かなりあらわに体を慄《ふる》わして、私の肩に掴《つかま》った。その掴り方は、彼女の指先が私の肩の肉に食い込んで痛いくらいだった。ふだん長い睫毛《まつげ》をかむって煙っている彼女の眼は、切れ目一ぱいに裂け拡《ひろ》がり、白眼の中央に取り残された瞳は、異常なショックで凝ったまま、ぴりぴり顫動《せんどう》していた。口も眼のように竪《たて》に開いていた。小鼻も喘《あえ》いで膨らみ、濃い眉《まゆ》と眉の間の肉を冠《かぶ》る皮膚が、しきりに隆まり歪《ゆが》められ、彼女に堪え切れないほどの感情が、心内に相衝撃するもののように見えた。二三度、陣痛のようにうねりの慄えが強く、彼女の指先から私の肩の肉に噛《か》み込まれ、同時に、彼女から放射する電気のようなものを私は感じた。私は彼女が気が狂ったのではないかと、怖《おそ》れながら肩の痛さに堪えて、彼女の気色を覗《うかが》った。自分でも気がつくくらい、私の唇も慄えていた。
 男は席につくと、私に簡単に挨拶《あいさつ》した。
「木下です。今度は思いがけないご厄介をかけまして」と頭を下げた。
 それから社長に向って
「いや、あなたにもどうも……」これは微笑しながらいった。
 娘は座席に坐《すわ》り直して、ちょっとハンケチで眼を押えたが、もうそのときは何となく笑っている。始めて男は娘に口を切った。
「どうかしましたか」それは決して惨《むご》いとか冷淡とかいう声の響ではなかった。
「いいえ、あたし、あんまり突然なのでびっくりしたものだから……」そして私の方を振り向いて、「でも、すべて、こちらがいて下さるものですから」と自分の照れかくしを仕乍《しなが》ら私に愛想をした。
 娘は直《じ》きに悪びれずに男の顔をなつかしそうにまともに見はじめた。だが何気ないその笑い顔の頬《ほお》にしきりに涙が溢《あふ》れ出す。娘はそれをハンケチで拭《ぬぐ》い拭《ぬぐ》い男の顔に目を離さない――男もいじらしそうに、娘の眼を柔かく見返していた。
 社長もすべての疎通を快く感ずるらしく、
「これで顔が揃《そろ》った。まあ祝盃として一つ」などとはしゃいだ。
 私はふと気がつくと、娘と男から離れて、独り取り残された気持ちがした。こちらから望んで世話に乗り出したくらいだから、利用されたというような悪毒《あくど》く僻《ひが》んだ気持ちはしないまでも、ただわけもなく寂しい感じが沁々《しみじみ》と襲った。――この美しい娘はもう私に頼る必要はなくなった。――しかし、私はどんな感情が起って不意に私を妨げるにしても自分の引受けた若い二人に対する仕事だけは捗取《はかど》らせなくてはならないのである。私は男に、
「それで、結婚のお話は」
 ともう判り切って仕舞ったことを形式的に切り出した。すると男はちょっとお叩頭《じぎ》して、
「いや、私の考がきまりさえしたら、それでよろしいんでございましょう。いろいろお世話をかけて申訳ありません」といった。
 娘は私に向って、同じく頭を下げて済まないような顔をした。
 もはや、完全に私は私の役目を果した。二人の間に私の差挟まる余地も必要もないのをはっきり自
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