て、流れの中に岩石がある。
「あすこによく鰐《わに》の奴が、背中を干しているのだが、……」と事務員の一人が指したが、そのすぐあと、艫《とも》の方にいた事務員がいった。
「こっちこっち、あすこにいます」
 濁った流れの中に、黒っぽいものが、渦を水に曳《ひ》いて動くのが見えた。また、その周囲にそれも生きものが泳ぐのかと思われるほどの微《かす》かな小さい渦が見える。
「は は は 子供を連れとる」
 私の気持ちはというと、この原始の自然があまりに、私たちの自然と感じ慣れているものより差違があり、この現実が却《かえ》って、百貨店の催しものの、造り庭のように見え、この南洋風景図の背景の前に、鰐《わに》がいるのは当然の趣向に見え、もう少し脅《おび》えたい気持ちをさえ自分に促した。鰐に向ける銃声の方が本当の鰐に対するより却って私たちを驚かした。鰐は影を没した。
「鉄砲の音は痛快ね」と娘はいって、しきりに当もなく発砲して貰った。
「あなた方内地の女性に向って、ふだん考え溜《た》めていたことを、話し出せそうな緒口《いとぐち》が見つかったようになって、お訣《わか》れするのは惜しいものです」と若い経営主はいった。
 私も、「こういう本当の自然と、それを切り拓《ひら》いて行く人間の仕事に就《つ》いて、漸《ようや》く眼が開きかかって来たのに、お訣れするのは、まったく惜しい気が致します」といった。
 娘は俯向《うつむ》いて、型のようにちょっと無名指《くすりゆび》の背の節で眼を押えた。その仕草が、日本女性のこういう場合にとる普通の型のように見え乍《なが》ら私はやはりこの遠方の異境にまで男を尋ねて来た娘が何かと感傷的になっている証拠にも見た。
 私たちはジョホール河のベンゲラン岬から、馬来人《マレイじん》が舵※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《かじ》を執り、乗客も土人ばかりのあやしいまで老い朽ちた発動機船に乗った。
「腰かけたまわりには、さっき上げといた蚤取粉《のみとりこ》を撒《ま》くんですよ。そうしないと虫に食われますよ」見送りの事務員の労《いたわ》った声が桟橋から響いた。娘はポケットを押えてみて、窓からお叩頭《じぎ》をした。
 怠惰なエンジンの音が聞えて、機船は河心へ出た。河と云いながら、大幅な両岸は遠く水平線に退いて、照りつける陽の下に林影だけ一抹の金の塗粉のようになって見えた。それが水天一枚の瑠璃色《るりいろ》の面でしばしば断ち切れて、だんだん淡く、蜃気楼《しんきろう》の島のように中空に映り霞《かす》んで行く。たゆげな翼を伸した鳥が、水に落ちようとしてたゆたっている。
 昼前に新嘉坡《シンガポール》の郊外のカトン岬の小さな桟橋についた。娘の待つ男の船は、今夜か明朝、新港に着く予定であった。
「まだ時間は大丈夫だ。ゆっくりして行きましょう。この辺もチャンギーと云って、新嘉坡の名所の一つで、どうせ来なくちゃならんところだ」社長はそういって、海の浅瀬に差し出してある清涼亭という草葺《くさぶ》き屋根の日本人経営の料亭へ、私たちを連れて行き、すぐ上衣を脱いだ。
「まあいい所ね」
 私も娘も悦《よろこ》んだ。この辺の砂は眩《まぶし》いくらい白く、椰子《やし》の密林の列端は裾《すそ》を端折《はしょ》ったように海の中に入っている。
 亭の前の崖下《がけした》は生洲《いけす》になっていて、竹笠《たけがさ》を冠《かぶ》った邦人の客が五六人釣をしている。
 汐時のすこし湿っぽい畳の小座敷で、社長は無事見学祝いだとか、何とか云っては日本酒の盃を挙げている。海の匂《にお》いと酒の匂いが、自分たちの遠い旅をほのぼのと懐かしませる。私は生洲から上げたばかりという生け鱸《すずき》の吸ものの椀《わん》を取上げて、長汀曲浦《ちょうていきょくほ》にひたひたと水量を寄せながら、浜の椰子林をそのまま投影させて、よろけ縞《しま》のように揺らめかし、その遙かの末に新嘉坡の白亜の塔と高楼と煤煙《ばいえん》を望ましている海の景色に眼を慰めていた。だが、心はまだしきりに今朝ジョホール河の枝川の一つで、銃声に驚いて見張った私達の瞳孔《どうこう》に映った原始林の厳《おごそ》かさと純粋さを想《おも》い起していた。それはひどく心を直接に衝《う》った。何か人間にその因習生活を邪魔なものに思わせ、それを脱ぎ捨て度《た》い切ない気持ちにさせた。そしてその原始の自然に食い込んで生活を立てて行く仕事が、何の種類であれ、人間の生きる姿の単一に近いものであるように考えさせられた。始終自然から享《う》ける直接の豊饒《ほうじょう》な直観に浸れもしよう。
「二万円の護謨園《ゴムえん》をお買いになれば、年々その収益で、こっちへ休暇旅行ができますね。どうです」
 座興的であったが若い経営園主がゆうべ護謨園で話の序《ついで》
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