覚した。すると私は早く日本の叔母の元へ帰り、また、物語を書き継ぐ忍従の生活に親しみ度《た》い心のコースが自然私に向いて来た。
 私たちからは内地の話や、男からは南洋の諸国の話が、単なる座談として交わされた。社長は別室へ酔後の昼寝をしに行った。
 この土地常例の驟雨《スコール》があって後、夕方間近くなって、男は私だけに向って、
「ちょっとその辺を散歩しましょう。お話もありますから」と云った。
 私は娘の顔を見た。娘は「どうぞ」と会釈した。そこで私は男に連立って出た。雨後すぐに真白に冴《さ》えて、夕陽に瑩光《えいこう》を放っている椰子林《やしりん》の砂浜に出た。
 スコールは右手の西南に去って、市街の出岬の彼方の海に、まだいくらか暗沫《あんまつ》の影を残している。男はその方を指して「こっちはスマトラ」それからその反対の東南方を指して「こっちはボルネオ」、それから真正面の青磁色の水平線に、若い生姜《しょうが》の根ほどの雲の峯を、夕の名残《なご》りに再び拡《ひろ》げている方を指して、「ずーっと、この奥に爪哇《ジャバ》があります。みな僕の船の行くところです」
 彼は一本の椰子の樹の梢《こずえ》を見上げて、その雫《しずく》の落ちない根元の砂上に竹笠《たけがさ》を裏返しに置き、更にハンケチをその上に敷き、
「まあ、この上に腰を降ろして頂きましょうか」
 そして彼は巻莨《まきたばこ》を取り出して、徐《おもむ》ろに喫《す》っていたが、やがて、私から少し離れて腰をおろして口を切りだした。海を放浪する男にしては珍らしく律儀な処のある性質も、次のような男の話で知られるのであった。
「お手紙で、あの娘と僕とにどうしても断ち切れない絆《きずな》があることは判りました。実はその絆が僕自身にも強く絡《まつ》わっていたのがはっきり判ったのでご座います。それをご承知置き願って、これから僕の話すことを聞いて頂き度いのです。でないと、僕がここへ来て急に結婚に纏《まと》まるのが、単なる気紛《きまぐ》れのように当りますから」
 彼は、私が大体それを諒解《りょうかい》できても、直《す》ぐさま承認出来ないで黙っているのを見て取ってこう云った。
「僕と許婚《いいなずけ》も同様なあれと僕との間柄を、なぜ僕がいろいろと迷って来たか、なぜ時には突き放そうとまでしたか、この理由があなたにお判りになっていらっしゃらないかも知れませんが……いやあなたばかりではない、あれにもまだ判っていない……」
 彼はしまいを独言にして一番肺の底に残して置いたような溜息《ためいき》をした。私は娘の身の上を心配するについての曾《かつ》ての焦立《いらだ》たしい気持ちに、再び取りつかれ、ついこういってしまった。
「多分あなただけのお気持ちでしょう、そんなこと、私たちには判らなかったからこそ、あの娘さんは死ぬような苦しみもし、何のゆかりも無い私のようなものまで、おせっかいに飛び出さなくてはならない羽目に陥って仕舞ったのですわ。」
 私の語気には顔色と共にかなり険しいものがあったらしい。すると、彼は突き立てている膝《ひざ》と膝との間で、両手の指を神経質に編み合せながら、首を擡《もた》げた。
「ご尤《もっと》もです。しかし、僕自身の気持ちが、僕にはっきり判ったのも、矢張りあなたが仲に入られたお陰なんです。その前まではただ何となくあの娘は好きだが、あの娘も女だ。あの娘も女だという事が気に入らない。ぼんやりこの二つの間を僕は何百遍となく引ずり廻《まわ》されていました。僕とて永い苦しい年月でした。ま、とにかく、僕の身の上話を一応|訊《き》いて下さい。第一に僕の人生の出発点からして、捨子という、悲運なハンディキャップがついているんです。」
 彼の語り出した身上話とは次のようなものであった。


 東京の日本橋から外濠《そとぼり》の方へ二つ目の橋で、そこはもはや日本橋川が外濠に接している三叉《さんさ》の地点に、一石橋がある。橋の南詰の西側に錆《さ》び朽ちた、「迷子のしるべの石」がある。安政時代、地震や饑饉《ききん》で迷子が夥《おびただ》しく殖えたため、その頃あの界隈《かいわい》の町名主等が建てたものであるが、明治以来|殆《ほとん》ど土地の人にも忘れられていた。
 ところが、明治も末に近いある秋、このしるべの石の傍に珍らしく捨子がしてあった。二つぐらいの可愛《かわい》らしい男の子で、それが木下であった。
 その時分、娘の家の堺屋は橋の近くの西河岸に住宅があったので、子のない堺屋の夫妻は、この子を引き取って育てた。それから三年して、この子が五つになった時分に、近所に女中をしていた女が、堺屋に現れて、子供の母だと名乗り出た。彼女は前非を悔い、不実を詫《わ》びたので、堺屋ではこの母をも共に引き取った。
 母は夫と共に日露戦役後の世間
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