えられた。 
 私は何だか来てしまって見ると、期待したほどの慾も起らない河面の景色を、それでも好奇心で障子を開けてみた。硝子戸《ガラスど》を越して、荷船が一ぱい入って向うの岸は見えない。その歩《あゆ》び板の上に、さき程の娘は、もう水揚げ帳を持って、万年筆の先で荷夫たちを指揮している姿が眺められた。


 私は毎日河沿いの部屋へ通った。叔母と一緒に昼飯を済ませ、ざっと家の中を片付けて、女中に留守中の用事を云いつけてから出かけた。化粧や着物はたいして手数がかからなかった。見られる同性というならば、あの娘ぐらいなもので、その娘は他人に対するそういう詮索《せんさく》には全然注意力を持たないらしかった。それは私を気易くさせた。
 この宿の堆朱《ついしゅ》の机の前に座って、片手を小長火鉢の紫檀《したん》の縁に翳《かざ》しながら、晩秋から冬に入りかける河面を丸窓から眺めて、私は大かた半日同じ姿勢で為すことなく暮した。
 河は私の思ったほど、静かなものではなかった。始終船が往き来した。殊に夕暮前は泊りの場所へ急ぐ船で河は行き詰った。片手に水竿《みずざお》を控え、彼方此方に佇《たたず》んで当惑する船夫の姿は、河面に蓋《ふた》をした広い一面板に撒《ま》き散《ちら》した箱庭の人形のように見えた。船夫たちは口々に何やら判らない言葉で怒鳴った。舷《ふなばた》で米を炊いでいる女も、首を挙げて怒鳴った。水上警察の巡邏船《じゅんらせん》が来て整理をつけた。
 娘は滅多に来ないで、小女のやま[#「やま」に傍点]というのが私の部屋の用を足した。私はその小女から、帆柱を横たえた和船型の大きな船を五大力ということだの、木履《ぽっくり》のように膨れて黒いのは達磨《だるま》ぶねということだの、伝馬船《てんません》と荷足《にた》り船《ぶね》の区別をも教えて貰った。
 しかし、そんな智識が私の現在の目的に何の関りがあろう。私が書いている物語の娘に附与したい性格を囁《ささや》いて呉《く》れそうな一光閃《いちこうせん》も、一陰翳《いちいんえい》もこの河面からは射《さ》して来ない。却《かえ》ってだんだん川にも陸の上と同じような事務生活の延長したものが見出されて来る。私がこういう部屋を望んだ動機がそもそも夢だったのだろうか。
 すでにこの河面に嫌厭《けんえん》たるものを萌《きざ》しているその上に、私はとかく後に心を牽《ひか》れた。何という不思議なこの家の娘であろう。この娘にも一光閃も、一陰翳もない。ただ寂しいと云えばあまりに爛漫として美しく咲き乱れ、そして、ぴしぴし働いている。それがどういう目的のために何の情熱からということもなく快闊《かいかつ》そのものが働くことを藉《か》りて、時間と空間を鋏《はさ》み刻んで行くとしか思えない。内にも外にも虚白なものの感じられるのを、却って同じ女としての私が無関心でいられる筈《はず》がなかった。
 娘はその後、二度程私の部屋に来た。一度は「ほんとに気がつきませんで……」といって、三面鏡の化粧台を店員たちに運ばせて、程よい光線の窓際に据《す》えて行った。一度は漢和の字引をお持ちでしたらと借りに来て、私がここまでは持って来ないのを知り、「お邪魔いたしましたわ」といってあっさり去った。
 私がまだ意識の底に残している、娘と何等かの関係ありそうな海好きの店員のことも、娘は忘れたかのように、すこしの消息も伝えない。私の多少当が外れた気持ちが、私がこの家へ出入のときに眼に映る店先での娘の姿や、窓越しに見る艀板《はしけいた》の上の娘の姿にだんだん凝って行くのであった。私の仕事鞄《しごとかばん》は徒《いたずら》に開かれて閉されるばかりである。
 私はだいぶ慣れて来た小女のやま[#「やま」に傍点]に訊いてみた。
「お嬢さんはどういう方」
 するとやま[#「やま」に傍点]は難かしい試験の問題のようにしばらく考えて、
「さあ、どういう方と申しまして……あれきりの方でございましょう」
 私はこのませ[#「ませ」に傍点]た返事に微笑した。
「この近所では亀島河岸のモダン乙姫《おとひめ》と申しております」
 私の微笑は深まった。
「他所《よそ》へお出になることがあって」
「滅多に、でも、お買ものの時や、お店のお交際《つきあ》いには時たまお出かけになります」
「お店のお交際いというと……」
 私は娘の活動範囲が、そこまで圏を拡《ひろ》げているのに驚ろいた。
「よくは存じませんですが、組合のご相談だの、宴会だの。きょうも船の新造卸しのお昼のご宴会に深川までお出かけになりましたが……」
 その夕方帰り仕度をしている私の部屋の前で、娘の声がした。
「まだお在《い》でになりまして」
 盛装して一流の芸者とも見える娘。娘に「ちょっと入って頂戴《ちょうだい》」と云われて、そのあとから若い芸
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