は少し廻りになるかも知れませんが、いらっしゃい、いいでしょう」
 この男が、いいでしょうというときは、既に決定的なものであって、おずおずとは云い出すのだが、云い出した以上、もう執拗《しつこ》く主張して訊《き》き入れなかった。
 万治の頃、伊達家《だてけ》が更に深く掘り下げて舟を通すようになったので、仙台堀とも云っている、この切堀の断崖《だんがい》は、東京の高台の地層を観察するのに都合がよかった。第四紀新層の生成の順序が、ロームや石や砂や粘土や砂礫《されき》の段々で面白いように判った。もうこの時分、娘は若い学者の測量器械の手入れや、採集袋の仕末や、ちょっとした記録は手伝えるようになっていた。
 娘は学者の家へも出入りするようになっていた。富んだ華族の家で、一家は大家族だが、みな感じがよく、家の者も娘を好んだ。若い学者は兄弟中の末子で、特に両親に愛されているようだった。
「お茶を飲みに行きませんか」「踊りに行きませんか」こういうこともある傍、娘は日本橋川を中心に、その界隈《かいわい》の堀割川の下調べを頼まれもした。
 八ヶ月ほどかかった旧神田川の調査のうちに、娘は学校を卒業した。娘はその若い学者に結婚を申込まれた。
「いいでしょう、君」
 やはり、おずおずと云い出すのだが、執拗《しつこ》く主張した。娘想《むすめおも》いの老父は、まことに良縁と思い、気心の判らぬ海へ行った若い店員との婚約は解消して是非その男に娘を嫁入らせると意気込んだ。
 海にいる若い店員からも同意の電報が来た。
 小さいときから一緒に育ったけれども、青年期に入る頃から海に出はじめ、だんだん父娘《おやこ》には性格が茫漠《ぼうばく》として来た若い店員には、今はもう強いて遠慮する必要は無い。娘の結婚を知らせるにも気易かった。若い学者との結婚の仕度は着々運んで行った。
「川を溯《さかのぼ》るときは、人間をだんだん孤独にして行きますが、川を下って行くと、人間は連を欲し、複数を欲して来るものです」
 若い学者は内心の弾む心をこういう言葉で娘に話した。娘も嫌ではなかった。
 だが、ある夜遅くあの部屋へ入って、結婚|衣裳《いしょう》を調べていて、ふと、上げ潮に鴎《かもめ》の鳴く声を聴いたら、娘は芝居の幕が閉じたように、若い学者との結婚が馬鹿らしくなった。陸へ上って来ない若い店員が心の底から恋われた。茫漠とした海の男への繋《つなが》りをいかにもはっきりと娘は自分の心に感じた。
 一時はひどく腹を立てても、結局、娘想いの父は、若い学者の家には、平謝りに謝って、結婚を思い切って貰った。若い学者はいくらか面当ての気味か、当時女優で名高かった女と結婚して、ときどき家庭はごたごたしている。
「じゃあ、その方には恋ではなくって、学問の好奇心で牽《ひ》かれて行ったのね。道理で、あなた、河川の事に詳しいと思った」
 私は苦笑したが、この爛漫《らんまん》とした娘の性質に交った好学的な肌合いを感じ、それがこの娘に対する私の敬愛のような気持ちにもなった。
「あなた男なら学者にもなれる頭持ってるかも知れないのね」
 娘は少し赫《あか》くなった。
「……私の母が妙な母でした。漢文と俳句が好きで、それだのに常盤津《ときわず》の名取りでしたし、築地のサンマー英語学校の優等生でしたり……」
 娘はその後のことを語り継いだ。その後、久し振りで、陸に上って来た若い店員に思切って訊いた。
「どうしたら、私はあなたに気に入るんでしょう」
 男はしばらく考えていたが、
「どうか、あなたが今よりも女臭くならないように……。」
 海の男は相変らず曖昧《あいまい》なことを云っているようで、その語調のなかには切実な希求が感じられたと娘は眼に涙さえ泛《うか》べ、最上の力で意志を撓《たわ》め出すように云った。
「私のそれからの男優《おとこまさ》りのような事務的生活が始まりました。その間二三度その男は帰って来ましたが、何とも云わずに酒を飲んで、また寂しそうに海へ帰って行きました。私はまだ、どこか灰汁《あく》抜けしない女臭いところがあるのかと、自分を顧みまして、努めようとしましたが、もうわけが分りません。迷い続けながら、それでも一生懸命に、その男の気に入るようにと生活して来ますうち、あなたにお目にかかりました」
 東京の中で、朝から食べさせる食物屋は至って数が少い。上野の揚げ出しとか、日本橋室町の花村とか、昔から決っているうち[#「うち」に傍点]である。そうでなければ各停車場の食堂か、駅前の旅籠屋《はたごや》や魚市場の界隈の小料理屋である。けれども女二人ではちょっと困る。私たちは寒気の冴《さ》える朝の楓《かえで》川に沿い、京橋川に沿って歩いたが、そうそうは寒さに堪えられない。車を呼び止めて、娘をホテルの食堂に連れて行き、早い昼飯を食べさし
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