散らされながら、着物と帯をつき合せて、
「どう、いいじゃないの……」と、まるで呉服屋の店先で品選《しなえ》りするように、何もかも忘れて眺めていた。
娘は、私から少し離れて停っていた。
「今日、あなたに見て頂こうと思いまして、昨夜|晩《おそ》くまでかかって展《ひろ》げて置きましたのですけど……あたくし、こんなもの、何度、破り捨てて、新らしく身の固めを仕直そうと思ったか判りません。でも、やっぱり出来ないで……時々ここへ来ては未練がましく出したり取り散らしたりして見るのですけれど……」
明るみに出て、陽の光を真正面に受けると、今まで薄暗いところで見た娘の貌《かお》のくぼみやゆがみはすっかり均《な》らされ、いつもの爛漫《らんまん》とした大柄の娘の眼が涙を拭《ふ》いたあとだけに、尚更《なおさら》、冴《さ》え冴《ざ》えとしてしおらしい。
「いつ頃、これを慥えなさって?」
「三年まえ……」
娘はしおしおと私に訴える眼つきをした。私は堪《たま》らなく娘がいじらしくなった。日はあかあかと照り出して、河の上は漸《ようや》く船の往来も繁《しげ》くなった。
「あんまりこんな所に引込んでいると、なお気が腐りますからね。きょうは、何処か外へ出て、気をさっぱりさせてから、本当にご相談しましょう」
河岸には二人並んで歩ける程、雪掻《ゆきか》きの開いた道が通り、人の往来は稀《まれ》だった。
二歳のとき母に死に訣《わか》れてから、病身で昔ものの父一人に育てられ、物心ついてからは海にばかりいる若い店員のつきとめられない心を追って暮らす寂しさに堪え兼ねた娘は、ふと淡い恋に誘われた。
相手は学校へ往き来の江戸川べりを調査している土俗地理学者の若い紳士であった。この学者は毎日のように、この沿岸に来て、旧神田川の流域の実地調査をしているのであった。
河の源は大概複雑なものだが、その神田川も多くの諸流を合せていた。まず源は井頭池から出て杉並区を通り、中野区へ入るところで善福寺川を受け容《い》れ、中野区淀橋区に入ると落合町で妙正寺《みょうしょうじ》川と合する。それから淀橋区と豊島区と小石川区の堺の隅を掠《かす》めて、小石川区|牛込《うしごめ》区の境線を流れる江戸川となる。飯田橋橋点で外濠《そとぼり》と合流して神田川となってから、なお小石川から来る千川を加え、お茶の水の切り割りを通って神田区に入り、両国橋の北詰で隅田川に注ぐまで、幾多の下町の堀川とも提携する。
東京の西北方から勢を起しながら、山の手の高台に阻まれ、北上し東行し、まるで反対の方へ押し遣《や》られるような迂曲《うきょく》の道を辿《たど》りながら、しかもその間に頼りない細流を引取り育《はぐく》み、強力な流れはそれを馴致《じゅんち》し、より強力で偉大な川には潔く没我合鞣《ぼつがごうじゅう》して、南の海に入る初志を遂げる。
この神田川の苦労の跡を調べることも哀れ深いが、もとこの神田川は麹町台《こうじまちだい》の崖下《がけした》に沿って流れ、九段下から丸の内に入って日本橋川に通じ、芝浦の海に口を開いていた。この江戸築城以前の流域を調べることは何かと首都の地理学的歴史を訪ねるのに都合が良かった。例えば、単に下流の部分の調査だけでも、昔大利根が隅田川に落ちていた時代の河口の沖積《ちゅうせき》作用を確めることが出来たし、その後、人工によって河洲を埋立てて、下町を作った、その境界も知れるわけであった。この亀島町辺も三百年位前は海の浅瀬だったのを、神田明神のある神田山の台を崩して、その土で埋めて慥えたものである。それより七八十年前は浅草なぞは今の佃島《つくだじま》のように三角洲《デルタ》だった。
こういう智識もその若い学者から学ぶところが多かったと、娘は真向から恋愛の叙情を語り兼ねて先《ま》ずこういう話から初めたのであった。
娘は目白の学校への往復に、その川べりのどこかの男の仕事場で度々|出遇《であ》い、始めはただ好感を寄せ合う目礼から始まって、だんだんその男と口を利き出すようになった。娘は、その男から先ず彼女に縁のある土地と卑近な興味の智識によって、東京生れの娘が今まで気付かずにいたものの、その実はいかに東京の土と水に染《し》みているかを学問的に解明された。
「明日は、大曲《おおまがり》の花屋の前の辺にいます。いらっしゃい」
その若い学者は科学の中でも、過去へ過去へと現代から離れて行く歴史性に、現実的の精力を取籠《とりこ》められて行く人にありがちな、何となく世間に対しては臆病《おくびょう》であり乍《なが》ら、自己の好みに対しては一克《いっこく》な癇癖《かんぺき》のようなものを持っていた。それは純粋な坊ちゃん育ちらしい感じも与えた。
「さあ、明日からはいよいよお茶の水の切り堀りに取りかかりましょう。学校へ
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