ま」に傍点]は俄《にわか》に思いついたように、
「ああそうでしたっけ、お嬢さんが今日あなたがいらしったら、お二階へおいで願うように申し上げて呉れと先程お部屋へ入るまえに仰いました」
やまはここまで云って、また躊躇《ちゅうちょ》するように、
「でも、お仕事お済ましになってからでないとお悪いから、それもよく伺って、ご都合の好い時に……って……」
私は一まずやま[#「やま」に傍点]を店の方へ帰して、一人になった。
河の水は濃い赤土色をして、その上を歩いて渡れそうだ。河に突き墜《おと》された雪の塊が、船の間にしきりに流れて来る。それに陽がさすと窈幻《ようげん》な氷山にも見える。こんなものの中にも餌《えさ》があるのか、烏が下り立って、嘴《くちばし》で掻《か》き漁《あさ》る。
烏の足掻《あしが》きの雪の飛沫《ひまつ》から小さな虹が輪になって出滅する。太鼓の音が殷々《いんいん》と轟《とどろ》く。向う岸の稲荷《いなり》の物音である。
私は一人になって火鉢に手をかざしながら、その殷々の音を聞いていると、妙にひしひしと寂しさが身に迫った。娘の憂愁が私にも移ったように、物憂く、気怠《けだ》るい。そしていつ爆発するか知れない焦々したものがあって、心を一つに集中させない。私は時を置いて三四度、部屋の中を爪立《つまだ》ち歩きをして廻って見たが、どうにもならない。やま[#「やま」に傍点]は娘が、私の仕事時間を済ましてから来て欲しいと言伝《ことづ》てたが、いっそ、今、直《す》ぐ独断に娘を二階の部屋へ訪ねてみよう――
二階の娘の部屋の扉をノックすると、私の想像していたとはまるで違って見える娘の顔が覗《のぞ》いて、私を素早く部屋の中へ入れた。私の不安で好奇に弾んだ眼に、直ぐ室内の様子ははっきり映らない、爪哇更紗《ジャバさらさ》のカーテンが扉の開閉の際に覗《のぞ》かれる空間を、三四尺奥へ間取って垂れ廻《まわ》してある。戸口とカーテンのこの狭い間で、娘と私はしばらく睨《にら》み合いのように見合って停った。シャンデリヤは点《つ》け放しにしてあるので、暗くはなかった。
思いがけない情景のなかで突然、娘に逢《あ》って周章《あわ》てた私の視覚の加減か、娘の顔は急に痩《や》せて、その上、歪《ゆが》んで見えた。ウェーヴを弾《は》ね除《の》けた額は、円くぽこんと盛上って、それから下は、大きな鼻を除いて、中窪《なかくぼ》みに見えた。顎《あご》が張り過ぎるように目立った。いつもの美しい眼と唇は、定まらぬ考えを反映するように、ぼやけて見えた。
娘は唇の右の上へ幼稚で意地の悪い皺《しわ》をちょっと刻んだかと見えたが、ぼやけていたような眼からは、たちまちきらりとなつかしそうな瞳《ひとみ》が覗き出た。
「…………」
「…………」
感情が衝《つ》き上げて来て、その遣《や》り場をしきりに私の胸に目がけながら、腰の辺で空に藻掻《もが》かしている娘の両方の手首を私は握った。私は娘にこんな親しい動作をしかけたのは始めてである。
「何でも云って下さい。関《かま》いません」
私のこの言葉と、もはや、泣きかかって、おろおろ声でいう娘の次の言葉とが縺《もつ》れた。
「あなたを頼りに思い出して、あたくしは……却《かえ》って気の弱い……女に戻りました」
そして、どうかこれを見て呉《く》れと云って、始めて私をカーテンの内部へ連れ込んだ。
東の河面に向くバルコニーの硝子扉《ガラスとびら》から、陽が差込んで、まだつけたままのシャンデリヤの灯影《ほかげ》をサフラン色に透き返させ、その光線が染色液体のように部屋中一ぱい漲《みなぎ》り溢《あふ》れている。床と云わず、四方の壁と云わず、あらゆる反物の布地の上に、染めと織りと繍《ぬ》いと箔《はく》と絵羽《えば》との模様が、揺れ漂い、濤《なみ》のように飛沫《ひまつ》を散らして逆巻き亘《わた》っている。徒《いたず》らな豪奢《ごうしゃ》のうすら冷い触覚と、着物に対する甘美な魅惑とが引き浪のあとに残る潮の響鳴のように、私の女ごころを衝《う》つ。
開かれた仕切りの扉から覗かれる表部屋の沢山の箪笥《たんす》や長持の新らしい木膚を斜に見るまでもなく、これ等のすべてが婚礼支度であることは判《わか》る。私はそれ等の布地を、転び倒れているものを労《いたわ》り起すように
「まあ、まあ」と云って、取上げてみた。
生地は紋綸子《もんりんず》の黒地を、ほとんど黒地を覗かせないまで括《くく》り染の雪の輪模様に、竹のむら垣を置縫いにして、友禅と置縫いで大胆な紅梅立木を全面に花咲かしている。私はすぐ傍にどしりと投げ皺《しわ》められて七宝配《しっぽうくば》りの箔が盛り上っている帯を掬《すく》い上げながら、なお、お納戸色《なんどいろ》の千羽鶴《せんばづる》の着物や、源氏あし手の着物にも気を
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