妙なことになって、婿の口も思うほどのことはございませんでして……」
娘は殆《ほとん》ど裁きを受ける女のように、首を垂れて少し蒼《あお》ざめていた。私は、
「もう、よろしいじゃございませんか、お話しは、また、この次に……」
と云ったが、老父は、
「いや、そうじゃございません。手前は明日が明日からまた寝込んでしまって、いつこの次にお目にかかれるか判りません。それで……」と意気込んで来た。老父には真剣に娘の身の上を想《おも》う電気のようなものが、迸《はし》り出した。
「私の知らない間に、娘がちょっろりと、あなたさまに部屋をお貸ししたと聞いて、実は私は、怒りました。しかし、娘はあなたさまの御高名を存じて居り、お顔も新聞雑誌で存じ上げて、かねてお慕い申していたので、喜んでお貸ししたと申します。私も思い返してみれば、あなたさまが世間のことは何事も御承知の筆をお執りになる方である以上、却《かえ》って、何かの便宜にあずかれるかも知れない。それで娘にもよく申付けて、お仕事にはお妨げにならないよう、表の事務室は人に貸すことは止めて仕舞い、また、是非、お近付き願えるよう、気を配って居りました。どうぞ、これから、これを妹とも思召《おぼしめ》し下すって、叱《しか》っても頂き、お引立てもお願いいたし度《た》いのです。どうぞお願い申します」
老父は右手の薬煙草《くすりたばこ》をぶるぶる慄《ふる》わして、左の手に移し、煙草盆に差込むと、開いた右の手で何処へ向けてとも判らず、拝むような手つきをした。それは素早く軽い手つきであったが、私をぎょっとさせた。娘も、それにつれて、萎《しお》れたままお叩頭《じぎ》した。
老父のそこまでの話の持って来方には、衰えてはいるようでも、下町の旧舗《しにせ》の商人の駆け引きに慣れた婉曲《えんきょく》な粘りと、相手の気の弱い部分につけ込む機敏さがしたたかに感じられた。
私は娘に対して底ではかなり動いて来た共感の気持ちも、老父の押しつけがましい意力に反撥《はんぱつ》させられて、何か嫌あな思いが胸に湧《わ》いた。しかし、
「まあ、私に出来ますことは……」と、かすかな声で返事しなければならなかった。
電気行灯《でんきあんどん》の灯の下に、竃河岸《へっついがし》の笹巻の鮨《すし》が持出された。老父は一礼して引込んで行った。首の向きも直さず、濃く煙らして、炉炭の火を見詰めていた娘の瞳《ひとみ》と睫毛《まつげ》とが、黒耀石《こくようせき》のように結晶すると、そこからしとりしとり雫《しずく》が垂れた。客の私が、却って浮寝鳥に枯柳の腰模様の着物の小皺《こじわ》もない娘の膝《ひざ》の上にハンケチを宛《あ》てがい、それから、鮨を小皿に取分けて、笹の葉を剥《む》いてやらねばならなかった。
でも、娘は素直に鮨を手に受取ると、一口端を噛《か》んだが、またしばらく手首に涙の雫を垂し、深い息を吐いたのち、
「あたくし、辛い!」と云った。そして私の方へ顔を斜に向けた。
「あたくしは、ときどきいっそのこと芸妓《げいぎ》にでも、女給にでもなって、思い切り世の中に暴れてみようと思うことがありますの」
それから、口の中の少しの飯粒も苦いもののように、懐紙を取出して吐き出した。
私は、この娘がそういうものになって暴れるときの壮観をちょっと想像したが、それも一瞬ひらめいて消えた火のような痛快味にしか過ぎないことを想い、さしずめ、「まあそんなに思い詰めないでも、辛抱しているうちには、何とか道は拓《ひら》けて来ますよ」と云わないではいられなかった。
昨夜から今朝にかけて雪になっていた。私は炬燵《こたつ》に入って、叔母に向って駄々を捏《こ》ねていた。
「あすこの家へ行くと、すっかり分別臭い年寄りにされて仕舞うから……」
「だから、なおのこと行きなさいよ。面白いじゃないか、そういう家の内情なんて、小説なんかには持って来いじゃありませんか」
この叔母は、私の生家の直系では一粒種の私が、結婚を避け、文筆を執ることを散々嘆いた末、遂に私の意志の曲げ難いのを見て取り、せめて文筆の道で、生家の名跡を遺《のこ》さしたいと、私を策励しにかかっているのだった。
「叔母さんなんかには、私の気持ち判りません」
「あんたなんかには、世の中のこと判りません」
だが、こういう口争いは、しじゅうあることだし、そして、私を溺愛《できあい》する叔母であることを知ればこそ、苦笑しながらも、それを有難いと思って、享《う》け入れている私との間には、いわば、睦《むつ》まじさが平凡な眠りに墜《お》ちて行くのを、強いて揺り起すための清涼剤に使うものであったから、調子の弾むうちはなお二口三口、口争いを続けながら、私はやっぱり河沿いの家のことを考えていた。
結局あの娘のことを考えてやるのには、どうして
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