と、何か紙一重|距《へだ》てたような、妙な心の触れ合いのまま、食後の馥郁《ふくいく》とした香煎《こうせん》の湯を飲み終えると、そこへ老主人が再び出て来て挨拶《あいさつ》した。茶の湯の作法は私たちを庭へ移した。蔵の中の南洋風の作り庭の小亭で私達は一休みした。
 私は手持不沙汰《てもちぶさた》を紛らすための意味だけに、そこの棕櫚《しゅろ》の葉かげに咲いている熱帯生の蔓草《つるくさ》の花を覗《のぞ》いて指して見せたりした。
 娘は微笑し乍ら会釈して、その花に何か暗示でもあるらしく、煙って濃い瞳《ひとみ》を研ぎ澄し、じーっと見入った。豊かな肉附き加減で、しかも暢《の》び暢《の》びしている下肢を慎ましく膝《ひざ》で詰めて腰をかけ、少し低目に締めた厚板帯の帯上げの結び目から咽喉《のど》もとまで大輪の花の莟《つぼみ》のような張ってはいるが、無垢《むく》で、それ故に多少寂しい胸が下町風の伊達《だて》な襟の合せ方をしていた。座板へ置いて無意識にポーズを取る左の支え手から素直に擡《もた》げている首へかけて音律的の線が立ち騰《のぼ》っては消え、また立ち騰っているように感じられる。悠揚と引かれた眉《まゆ》に左の上鬢《うわびん》から掻《か》き出した洋髪の波の先が掛り、いかにも適確で聡明《そうめい》に娘を見せている。
 私は女ながらづくづくこの娘に見惚《みほ》れた。棕櫚の葉かげの南洋蔓草の花を見詰めて、ひそかに息を籠《こ》めるような娘の全体は、新様式な情熱の姿とでも云おうか。この娘は、何かしきりに心に思い屈している――と私は娘に対する私の心理の働き方がだんだん複雑になるのを感じた。私はいくらか胸が弾むようなのを紛らすために、庭の天井を見上げた。硝子《ガラス》は湯気で曇っているが、飛白《かすり》目にその曇りを撥《はじ》いては消え、また撥く微点を認めた。霙《みぞれ》が降っているのだ。娘も私の素振りに気がついて、私と同じように天井硝子《てんじょうガラス》を見上げた。
 合図があって、私たちは再び茶室へ入って行った。床の間の掛軸は変っていて、明治末期に早世した美術院の天才画家、今村紫紅《いまむらしこう》の南洋の景色の横ものが掛けられてあった。
 老主人の濃茶の手前があって、私と娘は一つ茶碗《ちゃわん》を手から手に享《う》けて飲み分った。
 娘の姿態は姉に対する妹のようにしおらしくなっていた。老主人の茶の湯の技倆《ぎりょう》は少しけばけばしいが確であった。
 作法が終ると、老主人は袴《はかま》を除《と》って、厚い綿入羽織を着て現われた。炉に噛《かじ》りつくように蹲《かが》み、私たちにも近寄ることを勧めた。そして問わず語りにこんな話を始めた。
 徳川三代将軍の頃、関西から来て、江戸|廻船《かいせん》の業を始めたものが四五軒あった。
 その船は舷側《げんそく》に菱形《ひしがた》の桟を嵌《は》めた船板を使ったので、菱垣船《ひしがきぶね》と云った。廻船業は繁昌《はんじょう》するので、その廻船によって商いする問屋はだんだん殖え、大阪で二十四組、江戸で十組にもなった。享保時分、酒樽は別に船積みするという理由の下に、新運送業が起った。それに倣《なら》って、他の貨物も専門専門に積む組織が起った。すべて樽廻船《たるかいせん》と云った。樽廻船は船も新型で、運賃も廉《やす》くしたので、菱垣船は大打撃を蒙《こうむ》った。話のうちにも老主人は時々神経痛を宥《ゆる》めるらしい妙な臭いの巻煙草《まきたばこ》を喫《す》った。
「寛永時分からあった菱垣廻船の船問屋で残ったものは、手前ども堺屋と、もう二三軒、郡屋《こおりや》と毛馬屋《けまや》というのがございましたそうですが……」
 しかし、幕末まえ頃まで判っていたその二軒も、何か他の職業と変ったとやらで、堺屋は諸国雑貨販売と為替《かわせ》両替《りょうがえ》を職としていた。
 それから話はずっと飛んで、前の話とはまるで関係がないものを、強いてあるような話ぶりで、老主人は語り継いだ。
「河岸の事務室を開けて、貸室に致しましたのも窮余の策で、実は、この娘に結婚させようという若い店員がございますのですが、どうも、その男の気心がよく見定まりません。いろいろ迷った揚句、どなたか世間の広い男の方にでも入って頂いて、そういう方々ともお付合いしてみて、改めて娘の身の振り方を考え直してみましょう。まあ、打ち撒《ま》ければ、こういった考えがござりましたのです」
 娘は俯向《うつむ》いて、赧《あか》くなった。
「なにせ、私どもの暮しの範囲と申したら、諸国の商売取引の相手か、この界隈《かいわい》の組合仲間で、筋が定まり切っているだけ、広いようで案外狭いのでございます。それにこの娘が一時どういう気か学者になるなぞと申して、洋服なぞ着て、ぱふらぱふらやったものですから、いよいよ
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