も、海にいるという許婚《いいなずけ》の男の気持ちを一度見定めてやらなければならなくなるのだろう。ここまで煩わされた以上、もう仕事のために河沿いの家を選んだことは無駄にしても、兎《と》に角《かく》、この擾《みだ》された気持ちを澄ますまで、私はあの河沿いの家に取付いていなければならない。
 河沿いの家で出来たことは、河沿いの家できれいに仕末して去り度い。
 そう思って来ると、口惜しさを晴らす意地のようなものが起って来て、私は炬燵の布団から頬《ほお》を離して立ち上った。
「河沿いの仕事部屋へ雪見に行くわ」
 叔母は自分の意見を採用しながら、まだ、痩我慢《やせがまん》に態のよいことを云ってると見て取り、得意の微笑を泛《うか》べながら、
「ええええ、雪見にでも、何でも好いから、いらっしゃいとも」と云って、いそいそと土産《みやげ》ものと車を用意して呉《く》れた。


 昨日の礼に店先へ交魚の盤台を届けて、よろしくと云うと、居合せた店員が、
「大旦那《おおだんな》は咋夕からお臥《ふせ》りで、それからお嬢さんもご病気で」と挨拶《あいさつ》した。私は、「おや」と思いながら、さっさと自分の河沿いの室へ入った。
 いつもの通り、やま[#「やま」に傍点]が火鉢の火種を持って来た。
「お嬢さんお風邪……」と私は訊《き》いて見た。
 やまは、「ええ、いえ、あの、ちょっとご病気でございます」と云って、訊《たず》ねられるのを好まぬように素早く去った。 
 何か様子が妙だとは思ったが、窓障子を開け放した河面を見て、私はそんな懸念も忘れた。
 雪はほとんど小降りになったが、よく見ると鉛を張ったような都の曇り空と膠《にかわ》を流したような堀河の間を爪《つめ》で掻《か》き取った程の雲母《きらら》の片れが絶えず漂っている。眼の前にぐい[#「ぐい」に傍点]と五大力の苫《とま》を葺《ふ》いた舳《へさき》が見え、厚く積った雪の両端から馬の首のように氷柱《つらら》を下げている。少し離れて団平船《だんべいぶね》と、伝馬船《てんません》三|艘《そう》とか井桁《いげた》に歩び板を渡して、水上に高低の雪渓を慥えて蹲《うずくま》っている。水をひたひたと湛《たた》えた向河岸の石垣の際に、こんもりと雪の積もった処々を引っ掻《か》いて木肌の出た筏《いかだ》が乗り捨ててあり、乗手と見える蓑笠《みのかさ》の人間が、稲荷《いなり》の垣根の近くで焚火をしている。稲荷の祠《ほこら》も垣根も雪に隈取《くまど》られ、ふだんの紅殻《べんがら》いろは、河岸の黒まった倉庫に対し、緋縅《ひおど》しの鎧《よろい》が投出されたような、鮮やかな一堆《いったい》に見える。河川通のこの家の娘は、この亀島川は一日の通船数が三百以上もあり、泊り船は六十以上で、これを一町に割当てるとほぼ十艘ずつになると云ったが、今日はそういう河容とは、まるで違ったものに見える。
 そして、私が心を奪われたのは、いよいよ、そういう現象的の部分部分ではなかった。ふだんの繁劇な都会の濠川《ほりかわ》の人為的生活が、雪という天然の威力に押えつけられ、逼塞《ひっそく》した隙間《すきま》から、ふだんは聞取れない人間の哀切な囁《ささや》きがかすかに漏れるのを感ずるからであった。そして、これは都会の人間から永劫《えいごう》に直接具体的には聞き得ず、こういう偶々《たまたま》の場合、こういう自然現象の際に於て、都会に住む人間の底に潜んだ嘆きの総意として、聴かれるのであった。この意味に於て、眼の前見渡す雪は、私が曾《かつ》て他所《よそ》の諸方で見たものと違って、やはり、東京の濠川《ほりかわ》の雪景色であった。
 小店員が入って来て、四五通の外文の電報や外文の手紙を見て呉《く》れと差出した。
「まことに済みませんが、店の者みんな出払ちゃいましたし大旦那《おおだんな》にもお嬢さんにも寝込まれちゃいましたので……」
 大切な急ぎの用だと困るというので私が見たその注文の電報や外文は南洋と云われる範囲の各地からだった。その一つには、
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板舟。鯛箱《たいばこ》。
卸《おろ》し庖丁《ぼうちょう》大小。鱈籠《たらかご》。
半台。河岸|手桶《ておけ》。
計りザル。油屋ムネカケ。
打鉤《うちばり》大小。タンベイ。
足中草履《あしなかぞうり》。引切《ひっきり》。
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 ローマ字から判読するこれ等は、誰か爪哇《ジャバ》[#ルビの「ジャバ」は底本では「ジャパ」]で魚屋を始める人があって、その道具を注文して来たのだった。
 一礼して去る小店員に向って、私は、
「こういう簡単なものもご覧になれないって、お嬢さんどういうご病気なの」
 というと、小店員はちょっと頭を掻《か》いたが、
「まあ、気鬱症《きうつしょう》とか申すのだそうでございましょうかな。滅多
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