の近くで焚火をしている。稲荷の祠《ほこら》も垣根も雪に隈取《くまど》られ、ふだんの紅殻《べんがら》いろは、河岸の黒まった倉庫に対し、緋縅《ひおど》しの鎧《よろい》が投出されたような、鮮やかな一堆《いったい》に見える。河川通のこの家の娘は、この亀島川は一日の通船数が三百以上もあり、泊り船は六十以上で、これを一町に割当てるとほぼ十艘ずつになると云ったが、今日はそういう河容とは、まるで違ったものに見える。
 そして、私が心を奪われたのは、いよいよ、そういう現象的の部分部分ではなかった。ふだんの繁劇な都会の濠川《ほりかわ》の人為的生活が、雪という天然の威力に押えつけられ、逼塞《ひっそく》した隙間《すきま》から、ふだんは聞取れない人間の哀切な囁《ささや》きがかすかに漏れるのを感ずるからであった。そして、これは都会の人間から永劫《えいごう》に直接具体的には聞き得ず、こういう偶々《たまたま》の場合、こういう自然現象の際に於て、都会に住む人間の底に潜んだ嘆きの総意として、聴かれるのであった。この意味に於て、眼の前見渡す雪は、私が曾《かつ》て他所《よそ》の諸方で見たものと違って、やはり、東京の濠川《ほりかわ》の雪景色であった。
 小店員が入って来て、四五通の外文の電報や外文の手紙を見て呉《く》れと差出した。
「まことに済みませんが、店の者みんな出払ちゃいましたし大旦那《おおだんな》にもお嬢さんにも寝込まれちゃいましたので……」
 大切な急ぎの用だと困るというので私が見たその注文の電報や外文は南洋と云われる範囲の各地からだった。その一つには、
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板舟。鯛箱《たいばこ》。
卸《おろ》し庖丁《ぼうちょう》大小。鱈籠《たらかご》。
半台。河岸|手桶《ておけ》。
計りザル。油屋ムネカケ。
打鉤《うちばり》大小。タンベイ。
足中草履《あしなかぞうり》。引切《ひっきり》。
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 ローマ字から判読するこれ等は、誰か爪哇《ジャバ》[#ルビの「ジャバ」は底本では「ジャパ」]で魚屋を始める人があって、その道具を注文して来たのだった。
 一礼して去る小店員に向って、私は、
「こういう簡単なものもご覧になれないって、お嬢さんどういうご病気なの」
 というと、小店員はちょっと頭を掻《か》いたが、
「まあ、気鬱症《きうつしょう》とか申すのだそうでございましょうかな。滅多
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