るともなく照る底明るい光線のためかも知れない、この一劃《いっかく》だけ都会の麻痺《まひ》が除かれていて、しかもその冴《さ》え方は生々しくはなかった。私はその横道へ入って行った。
河岸側の洋館はたいがい事務所の看板が懸けてあった。その中の一つの琺瑯質《ほうろうしつ》の壁に蔦《つた》の蔓《つる》が張り付いている三階建の、多少住み古した跡はあるが、間に合せ建ではないそのポーチに小さく貸間ありと紙札が貼《は》ってあった。ポーチから奥へ抜けている少し勾配《こうばい》のある通路の突き当りに水も覗《のぞ》いていた。私はよくも見つけ当てたというよりは、何だか当然のような気がした。望みというものは、意固地《いこじ》になって詰め寄りさえしなければ、現実はいつか応じて来るものだ。私が水辺に家を探し始めてから二ヶ月半かかっている。
二三度「ご免下さい」と云ったが、返事がない。取り付きの角の室を硝子窓《ガラスまど》から覗くと、薄暗い中に卓子《テーブル》のまわりへ椅子《いす》が逆にして引掛けてあり、塵《ちり》もかなり溜《たま》っている様子である。私は道を距《へだ》てて陸側の庫造《くらづく》りの店の前に働いている店員に、理由を話して訊《たず》ねて見た。するとその店員は家の中へ向って伸び上り、「お嬢さーん」と大きな声で呼んだ。
九曜星の紋のある中仕切りの暖簾《のれん》を分けて、袂《たもと》を口角に当てて、出て来た娘を私はあまりの美しさにまじまじと見詰めてしまった。頬《ほお》の豊かな面長の顔で、それに相応《ふさわ》しい目鼻立ちは捌《さば》けてついているが、いずれもしたたかに露を帯びていた。身丈も格幅《かっぷく》のよい長身だが滞なく撓《しな》った。一たい女が美しい女を眼の前に置き、すぐにそうじろじろ見詰められるものではない。けれども、この娘には女と女と出会って、すぐ探り合うあの鉤針《かぎばり》のような何ものもない。そして、私を気易くしたのは、この娘が自分で自分の美しさを意識して所作《しょさ》する二重なものを持たないらしい気配いである。そのことは一目で女には判る。
娘は何か物を喰《た》べかけていたらしく、片袖《かたそで》の裏で口の中のものを仕末して、自分の忍び笑いで、自然に私からも笑顔を誘い出しながら
「失礼いたしました。あの何かご用――」
そして私がちょっと河岸の洋館の方へ首を振り向けてから
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