るんでしょうけれど」
 すると娘は、俄《にわか》に、ふだん私が見慣れて来た爛漫《らんまん》とした花に咲き戻って、朗に笑った。
「この話は、まあ、この程度にして……こちらさまも一つ話ではお飽きでしょうから」
「そうでございましたわね」と芸妓たちも気がついて云った。
 私は帰る時機と思って、挨拶した。
 河靄《かわもや》が立ち籠めてきた河岸通りの店々が、早く表戸を降している通りへ私は出た。


 三四日、私は河沿いの部屋へ通うことを休んで見た。折角自然から感得したいと思うものを、娘やそのほか妙なことからの影響で、妨げられるのが、何か不服に思えて来たからである。いっそ旅に出ようか、普通通りすがりの旅客として水辺の旅館に滞在するならば、なんの絆《きずな》も出来るわけはない。明け暮れただ河面を眺め乍《なが》ら、張り亘《わた》った意識の中から知らず知らず磨き出されて来る作家本能の触角で、私の物語の娘に書き加える性格をゆくりなく捕捉《ほそく》できるかも知れない。私のこの最初の方図は障碍《しょうがい》に遭《あ》って、ますますはっきり私に慾望化して来た。
 ふと、過去に泊って忘れていたそれ等の宿の情景が燻《くすぶ》るように思い出されて来る。
 鱧《はも》を焼く匂《にお》いの末に中の島公園の小松林が見渡せる大阪天満川の宿、橋を渡る下駄の音に混って、夜も昼も潺湲《せんかん》の音を絶やさぬ京都四條河原の宿、水も砂も船も一いろの紅硝子《べにガラス》のように斜陽のいろに透き通る明るい夕暮に釣人が鯊魚《はぜ》を釣っている広島太田川の宿。
 水天髣髴《すいてんほうふつ》の間に毛筋ほどの長堤を横たえ、その上に、家五六軒だけしか対岸に見せない利根川の佐原の宿、干瓢《かんぴょう》を干すその晒《さら》した色と、その晒した匂いとが、寂しい眠りを誘う宇都宮の田川の宿――その他川の名は忘れても川の性格ばかりは、意識に織り込まれているものが次々と思い泛《うか》べられて来た。何処でも町のあるところには必ず川が通っていた。そして、その水煙と水光とが微妙に節奏する刹那《せつな》に明確な現実的人間性が劃出《かくしゅつ》されて来るのが、私に今まで度々の実例があった。東洋人の、幾多古人の芸術家が「身を賭《か》けて白雲に駕《が》し、」とか、「幻に住さん」などということを希《ねが》っている。必ずしも自然を需《もと》めるのではある
前へ 次へ
全57ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング