うごめ》いていた、新嘉坡《シンガポール》の町の灯がだんだん生き生きと煌《きら》めき出した。日本料理店清涼亭の灯も明るみ出した。
話し疲れた二人は暫《しばら》く黙っていた。
波打際をゆっくりと歩いて来る娘と社長の姿が見えた。蛍の火が一すじ椰子の並木の中から流れてきた。娘は手に持っていた団扇《うちわ》をさし上げた。蛍の光はそれにちょっと絡《まと》わったが、低く外れて海の上を渡り、また高く上って、星影に紛れ込んで見えなくなった。
私はいま再び東京日本橋箱崎川の水に沿った堺屋のもとの私の部屋にいる。日本の冬も去って、三月は春ながらまだ底冷えが残っている。河には船が相変らず頻繁に通り、向河岸の稲荷《いなり》の社には、玩具《がんぐ》の鉄兜《てつかぶと》を冠《かぶ》った可愛《かわ》ゆい子供たちが戦ごっこをしている。
その後の経過を述べるとこうである。
私は遮二無二|新嘉坡《シンガポール》から一人で内地へ帰って来た。旅先きでの簡単な結婚式にもせよ、それを済ましたあとの娘を、直《す》ぐに木下に托《たく》するのが本筋であると思ったからである。陸に住もうが、海に行こうが、しばらくも離れずにいることが、この際二人に最も必要である。場合によってはと考えて、初から娘の旅券には暹羅《シャム》、安南、ボルネオ、スマトラ、爪哇《ジャバ》への旅行許可証をも得させてあったのが、幸だった。
私はうすら冷たくほのぼのとした河明りが、障子にうつるこの室に座りながら、私の最初のプランである、私の物語の娘に附与すべき性格を捕捉《ほそく》する努力を決して捨ててはいない。芸術は運命である。一度モチーフに絡《から》まれたが最後、捨てようにも捨てられないのである。その方向からすれば、この家の娘への関心は、私に取って一時の岐路であった。私の初め計劃《けいかく》した物語の娘の創造こそ私の行くべき本道である。
だが、こう思いつつ私が河に対するとき、水に対する私の感じが、殆《ほとん》ど[#「殆《ほとん》ど」は底本では「殆《ほとん》んど」]前と違っているのである。河には無限の乳房のような水源があり、末にはまた無限に包容する大海がある。この首尾を持ちつつ、その中間に於ての河なのである。そこには無限性を蔵さなくてはならない筈《はず》である。
こういうことは、誰でも知り過ぎていて、平凡に帰したことだが、この家の娘が身
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