老人は身振りを増して、滴《したた》るものの甘さを啜《すす》るとろりとした眼付きをして語った。それは工人自身だけの娯しみに淫《いん》したものであって、店の者はうんざりした。だがそういうことのあとで店の者はこの辺が切り上がらせどきと思って
「じゃまあ、今夜だけ届けます。帰って待っといでなさい」
 と言って老人を送り出してから表戸を卸す。
 ある夜も、風の吹く晩であった。夜番の拍子木が過ぎ、店の者は表戸を卸して湯に出かけた。そのあとを見済ましでもしたかのように、老人は、そっと潜《くぐ》り戸を開けて入って来た。
 老人は娘のいる窓に向って坐った。広い座敷で窓一つに向った老人の上にもしばらく、手持無沙汰な深夜の時が流れる。老人は今夜は決意に充ちた、しおしおとした表情になった。
「若いうちから、このどじょうというものはわしの虫が好くのだった。この身体のしん[#「しん」に傍点]を使う仕事には始終、補いのつく食いものを摂らねば業が続かん。そのほかにも、うらぶれて、この裏長屋に住み付いてから二十年あまり、鰥夫《やもめ》暮しのどんな佗《わび》しいときでも、苦しいときでも、柳の葉に尾鰭《おひれ》の生えたよう
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