よりも葉越しの空の夕月を愛した。そういうことは彼女自身却って若さに飽満していたためかも知れない。
 店の代々の慣わしは、男は買出しや料理場を受持ち、嫁か娘が帳場を守ることになっている。そして自分は一人娘である以上、いずれは平凡な婿《むこ》を取って、一生この餓鬼窟の女番人にならなければなるまい。それを忠実に勤めて来た母親の、家職のためにあの無性格にまで晒されてしまった便《たよ》りない様子、能の小面《こおもて》のように白さと鼠色の陰影だけの顔。やがて自分もそうなるのかと思うと、くめ子は身慄いが出た。
 くめ子は、女学校を出たのを機会に、家出同様にして、職業婦人の道を辿《たど》った。彼女はその三年間、何をしたか、どういう生活をしたか一切語らなかった。自宅へは寄寓のアパートから葉書ぐらいで文通していた。くめ子が自分で想い浮べるのは、三年の間、蝶々のように華やかな職場の上を閃《ひら》めいて飛んだり、男の友だちと蟻の挨拶のように触覚を触れ合わしたりした、ただそれだけだった。それは夢のようでもあり、いつまで経っても同じ繰返しばかりで飽き飽きしても感じられた。
 母親が病気で永い床に就き、親類に喚《よ》び戻されて家に帰って来た彼女は、誰の目にもただ育っただけで別に変ったところは見えなかった。母親が
「今まで、何をしておいでだった」
 と訊くと、彼女は
「えへへん」と苦も無げに笑った。
 その返事振りにはもうその先、挑みかかれない微風のような調子があった。また、それを押して訊き進むような母親でもなかった。
「おまえさん、あしたから、お帳場を頼みますよ」
 と言われて、彼女はまた
「えへへん」と笑った。もっとも昔から、肉親同志で心情を打ち明けたり、真面目《まじめ》な相談は何となく双方がテレ[#「テレ」に傍点]てしまうような家の中の空気があった。
 くめ子は、多少諦めのようなものが出来て、今度はあまり嫌がらないで帳場を勤め出した。

 押し迫った暮近い日である。風が坂道の砂を吹き払って凍て乾いた土へ下駄《げた》の歯が無慈悲に突き当てる。その音が髪の毛の根元に一本ずつ響くといったような寒い晩になった。坂の上の交叉点からの電車の軋《きし》る音が前の八幡宮の境内《けいだい》の木立のざわめく音と、風の工合《ぐあい》で混りながら耳元へ掴《つか》んで投げつけられるようにも、また、遠くで盲人が呟《つぶ
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