湯気や煙で煤けたまわりを雇人の手が届く背丈けだけ雑巾をかけると見え、板壁の下から半分ほど銅のように赭《あか》く光っている。それから上、天井へかけてはただ黒く竈《かまど》の中のようである。この室内に向けて昼も剥き出しのシャンデリアが煌々《こうこう》と照らしている。その漂白性の光はこの座敷を洞窟のように見せる許《ばか》りでなく、光は客が箸《はし》で口からしごく肴《さかな》の骨に当ると、それを白の枝|珊瑚《さんご》に見せたり、堆《うずたか》い皿の葱《ねぎ》の白味に当ると玉質のものに燦《きらめ》かしたりする。そのことがまた却《かえ》って満座を餓鬼の饗宴染みて見せる。一つは客たちの食品に対する食べ方が亀屈《かじか》んで、何か秘密な食品に噛みつくといった様子があるせいかも知れない。
 板壁の一方には中くらいの窓があって棚が出ている。客の誂《あつら》えた食品は料理場からここへ差出されるのを給仕の小女は客へ運ぶ。客からとった勘定もここへ載せる。それ等を見張ったり受取るために窓の内側に斜めに帳場格子を控えて永らく女主人の母親の白い顔が見えた。今は娘のくめ子[#「くめ子」に傍点]の小麦色の顔が見える。くめ子は小女の給仕振りや客席の様子を監督するために、ときどき窓から覗く。すると学生たちは奇妙な声を立てる。くめ子は苦笑して小女に
「うるさいから薬味でも沢山《たくさん》持ってって宛てがっておやりよ」と命ずる。
 葱を刻んだのを、薬味箱に誇大に盛ったのを可笑《おか》しさを堪《こら》えた顔の小女が学生たちの席へ運ぶと、学生たちは娘への影響があった証拠を、この揮発性の野菜の堆さに見て、勝利を感ずる歓呼を挙げる。
 くめ子[#「くめ子」に傍点]は七八ヶ月ほど前からこの店に帰り病気の母親に代ってこの帳場格子に坐りはじめた。くめ子は女学校へ通っているうちから、この洞窟のような家は嫌で嫌で仕方がなかった。人世の老耄《ろうもう》者、精力の消費者の食餌療法をするような家の職業には堪えられなかった。
 何で人はああも衰えというものを極度に惧《おそ》れるのだろうか。衰えたら衰えたままでいいではないか。人を[#「を」に「(ママ)」の注記]押付けがましいにおいを立て、脂がぎろぎろ光って浮く精力なんというものほど下品なものはない。くめ子は初夏の椎《しい》の若葉の匂いを嗅いでも頭が痛くなるような娘であった。椎の若葉
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