や》いているようにも聞えたりした。もし坂道へ出て眺めたら、たぶん下町の灯は冬の海のいさり火[#「いさり火」に傍点]のように明滅しているだろうとくめ子は思った。
客一人帰ったあとの座敷の中は、シャンデリアを包んで煮詰った物の匂いと煙草の煙りとが濛々《もうもう》としている。小女と出前持の男は、鍋火鉢の残り火を石の炉《ろ》に集めて、焙《あた》っている。くめ子は何となく心に浸み込むものがあるような晩なのを嫌に思い、努めて気が軽くなるようにファッション雑誌や映画会社の宣伝雑誌の頁を繰っていた。店を看板にする十時までにはまだ一時間以上ある。もうたいして客も来まい。店を締めてしまおうかと思っているところへ、年少の出前持が寒そうに帰って来た。
「お嬢さん、裏の路地を通ると徳永が、また註文しましたぜ、御飯つきでどじょう汁一人前。どうしましょう」
退屈して事あれかしと待構えていた小女は顔を上げた。
「そうとう、図々《ずうずう》しいわね。百円以上もカケ[#「カケ」に傍点]を拵《こしら》えてさ。一文も払わずに、また――」
そして、これに対してお帳場はどういう態度を取るかと窓の中を覗いた。
「困っちまうねえ。でもおっかさんの時分から、言いなりに貸してやることにしているんだから、今日もまあ、持ってっておやりよ」
すると炉に焙っていた年長の出前持が今夜に限って頭を擡《もた》げて言った。
「そりゃいけませんよお嬢さん。暮れですからこの辺で一度かた[#「かた」に傍点]をつけなくちゃ。また来年も、ずるずるべったりですぞ」
この年長の出前持は店の者の指導者格で、その意見は相当採上げてやらねばならなかった。で、くめ子も「じゃ、ま、そうしよう」ということになった。
茹《ゆ》で出しうどん[#「うどん」に傍点]で狐南蛮を拵えたものが料理場から丼に盛られて、お夜食に店方の者に割り振られた。くめ子もその一つを受取って、熱い湯気を吹いている。このお夜食を食べ終る頃、火の番が廻って来て、拍子木が表の薄|硝子《ガラス》の障子に響けば看板、時間まえでも表戸を卸《おろ》すことになっている。
そこへ、草履《ぞうり》の音がぴたぴたと近づいて来て、表障子がしずかに開いた。
徳永老人の髯《ひげ》の顔が覗く。
「今晩は、どうも寒いな」
店の者たちは知らん振りをする。老人はちょっとみんなの気配《けは》いを窺《うかが》っ
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