た一晩だけ――ですから心配しないで、兄さんもご自分の勉強をなさつて……。」
 歳子は自分の好奇な行為だけを云はれるのに返事をすればたくさんなのに、兄の勉強のことにまで口走つてしまつたので、すこし云ひ過ぎたかと思つたのに、兄は「うむ、さうか」と温順《おとな》しく返事をしたので、却《かえ》つて気が痛みかけた。
「兄さん、棕櫚《しゅろ》の花が咲いてますのよ。葉の下の梢《こずえ》に房のやうに沢山《たくさん》。あたし何だか、ぽち/\冷たい小粒のものが顔に当るので雨かしらと思ひましたらね、花が零《こぼ》れるのですわ。」
 兄の気持ちを取做《とりな》し気味に、歳子はあどけなくかう云つた。すると兄はすつかり気嫌よく、
「棕櫚の花が咲いたか。ぢや、下を見てご覧、粟《あわ》を撒《ま》いたやうに綺麗《きれい》に零れてゐるよ。」と云つた。
 歳子は跼《せぐくま》つて、掌《てのひら》で地をそつと撫《な》でて見た。掌の柔い肉附きに、さら/\とした砂のやうな花の粒が、一重に薄く触れた。それは爽《さわや》かな感触だが、まだ生の湿り気を持つて、情味もあつた。かの女は「闇中《あんちゅう》に金屑《かなくず》を踏む」といふ東
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